三百六十頁に及ぶ大冊のこのエッセイ集に込められた、著者金光林の思いの根源にあるものは、一体何だろう。これは並みのエッセイ集ではない。「自由の涙」は確かに、このエッセイ集を象徴する表題ではあるが、そのメタファの根底に横たわるのは東洋的な哲理(特に、その民族性につながる)であり、日韓の不幸な近・現代史への文明批評的視座であり、また、著者の本領である「詩学」へのなみなみならぬ洞察と実作の提示である。そのトータルな印象として、この一冊はまぎれもなく詩人金光林の矜持と含羞に満ちた〈自分史〉として読むことができる。
飯嶋武太郎、志賀喜美子の翻訳による部厚いエッセイ集を、ほとんど一気に読んだ。(この二人の翻訳者は、すでに面識のある “詩友” である)とりわけ炎暑の厳しかった夏の盛り、八月十五日にまたがる数日間を費やして読破したのだが、彼の国の人々が「光復」「解放」と呼び、わが国で「終戦記念日」(正確には、「敗戦記念日」と呼ぶべきである)と呼ばれるこの季節の中で読み進めてゆくと、このエッセイ集は、いや応なく私自身の〈戦後史〉にも重なってくる。金光林の「自由の涙」は、南邦和の「自由の涙」でもある。
その盛名には早くから接していたが、詩人金光林との直接的な交流はこれまでほとんどなかった。(前橋や倭館〔ウエガン〕の詩人たちの会合で何度か見かけ名刺交換したことはあるが……)しかし、『自由の涙』を読み進めてゆくと、この詩人が意外に、私の身近に立っていたことに気付かされるのである。その第一の理由は、私の “原郷” ともいうべき幼少年期の生育地平康〔ピョンガン〕(江原道)や、敗戦の日を迎えた咸興〔ハムン〕(咸鏡南道)と、詩人の故郷元山〔ウォンサン〕(成鏡南道)との地縁的な親近感である。エッセイ集を通じて少年の頃親しんでいたいくつかの懐かしい地名を散見することができた。
また、巻中に著者の敬愛する友人として度々登場する詩人具常や画家李仲燮についての、私なりの “新発見”もあった。具常と金光林との深い友愛の結びつきについては、すでに予備知識を持っていたが、具常詩人は私にとっても “韓国の慈父”と呼びたい偉大な存在であった。親しく言葉を交わしたのは五、六回ほどの機会であったが、ソウル汝矣〔ヨイド〕島のお宅へも三度ほどお邪魔している。また、私が編集していた日韓交流文芸誌「ほすあび」に玉稿を頂いたり、創作バレエ「百済幻想」の上演プログラムにも、親愛に満ちたありがたいメッセージを頂いたことがある。
しかも、具常詩人は、日本敗戦時に「北鮮日報」の記者として、私と同じ咸興府に居住していた(これは直接ご本人から聞いた話である)という。私はその新聞社の前を通って咸興国民学校へ通学していたことになる。二〇〇四年の師走、私は大邱在住の作家で具常詩人の “身内” と言ってもいい作家の尹章根と共に、ソウル南方の安城〔アンソン〕にある具常の墓を詣でた。この時、漢江のほとりの具常詩碑なども巡っているが、帰国に際して遺族から具常蔵書の何冊かを形見として頂いている。(歴史書「三國遺事」や「新約聖書」など)これは私にとっての終生の “宝もの”である。
『自由の涙』一章の「わたしの登壇時代」に描かれている「解放」翌年の、元山での “「凝香」〔ウンシャン〕詩集事件”のその頃、十三歳の私は “避難民”として、元山経由で北緯 度線を目指して南下していたのかもしれない。元山での数日間を山手にある寺(西本願寺か?)に収容されていたが、その街に金光林少年と青年詩人具常がおり、また、「凝香」の問題の表紙を描いた画家李仲燮がいたという、歴史的な偶然に驚いている。軍港でもあった元山は、〈大日本海洋少年団〉の団員であった “軍国少年”の私が、水兵さんの真似事をした “小さな古戦場”でもある。
画家李仲燮については、勿論、面識などあろうはずがない。実は、つい最近までその名前すら知らなかった異国の画家である。しかし、この春、たまたま済州島で開かれた韓国の文人たちとの会合の折に、西帰浦〔ソギホ〕の「李仲燮美術館」に立ち寄る機会があった。この画家と具常詩人との熱い友情を知ると共に、日本人妻山本方子との愛の顛末、そして、何よりもその自在な画風に強く惹かれた。美術館での展示は、李画伯の画業のごく一部の作品にしか過ぎなかったが、「犬と家族」や「波濤と魚」などの軽妙な小品、煙草の銀紙を使った “銀紙画”といわれる独自の手法が印象に残っている。
『自由の涙』の編中に、私が最も熱心に読んだのは、第六章の「画家李仲燮を描く」であった。画家李仲燮に関する本格評論をこのエッセイ集の中に見出したことは、何よりの収穫であった。著者は「私が見た絵の中の李仲燮の詩」の一章で《彼はしばしば詩を読むのを楽しんだし、落書きをするように詩を書きもしたが、彼の周辺には絵を描く友人に負けぬほど、詩を書く友人も多かったようだ……》と書きつけている。私がはじめて済州島で触れた李仲燮作品は、まさに、ポエジーの横溢したビジュアルな「詩」であった。特に、青いクレヨンの曲線の上を跳ねる魚を描いた「波濤と魚」の一点などは「詩」そのものであった。
金光林の評伝に見る画家李仲燮の生き方は、困難を極めた “荊の道” そのものであったようだ。この画家もまた “越南”の悲劇を背負っていた。(私の親しい画家に、現在大邱在住の元老申錫弼画伯=一九二〇年生=がいる。この画家の主題にはしばしば “離散家族”の悲劇が取り上げられるが、もしかすると沙里院〔サリウォン〕出身の申画伯と平安南道平原郡松泉里を故郷にする李画伯との間には、何らかの接点があったかもしれない)日本留学中、文化学院で知り合ったという山本方子との熱愛と、その絶望的な家庭生活についても、はじめて知ることばかりであった。美術館に隣接して李一家の住んだという藁屋根の民家があったが、わずか二、三畳の狭い小部屋に四人家族が生活していたという説明を聞いた。風光明媚な西帰浦も李一家にとってのパラダイスではなかったようである。
画家李仲燮からの紹介状を懐に、金光林少年が故郷元山を出奔したのは、一九四八年詩人十八歳の冬のことである。そのあたりの事情を自伝風に綴ったのが、この『自由の涙』のハイライトとも言える第三章「脱出から死境を越えてまで」である。この章についてはすでに、飯嶋武太郎の個人誌「むくげ通信」で読んできているが、他の章の硬質な評論、詩論に比べると、平明な筆致で、しかも、波瀾万丈のドラマティックなストーリー展開となっており、ぐいぐい読ませる迫力がある。
一九四八年春、金日成総合大学歴史文学部外国文学科に入学した金光林のその後の変転は、まさに、国家の運命とともに不幸な時代に翻弄された数奇な歩みである。元山から漣川〔ヨンチョン〕(この地名も懐かしい)そして、ソウルへと辿るそのコースは、私の少年期の “避難民”としての引揚げのコースに重なる。その後詩人はソウルで第二国民兵として徴集され、防衛学校を経て予備士官として参戦するが〈6・25〔ユギオ〕動乱〉の激戦地 “白馬〔ペンマ〕高地”での戦闘舞台となった〈鉄の三角地帯〉(鉄原〔チョルウオン〕──金化〔キマ〕──平康〔ピョンガン〕)の一点平康が私の生地である。「漢灘江をこえて行く道」の、その「漢灘江」を渡河して私たちも南へ逃れたはずであるが、川の名についての記憶はない。
この章に続く「二人の恩人と一人の怨鬼」も、〈6・25動乱〉(日本では〈朝鮮戦争〉と呼ぶ)のその時代をリアルに伝えるエピソードである。いま私の手許に十年ほど前ソウルで求めた『写真で見る6・25の真相』(兵学社刊)の一冊があるが、このモノクロームの写真集のどこかに、金光林少尉も潜んでいたのに違いない。改めて同じ民族が敵対したこの戦争の残酷さを思った。金光林の詩人としての出発がこの戦火の時代を背景にしていることが、この詩人のアイロニーとペーソスの詩風を形造ったと言えるのかもしれない。
その後の詩人の歩みも、実に波瀾に富んでいる。巻末に〔金光林論〕を執筆している金龍範の文章を借りると、「陸軍将校、文化広報部の行政事務官、外換銀行代理、雑誌社編集長、大学の時間講師、専門大学教授……」と、その多彩な経歴が挙げられているが、その変転の日々の中で、三十冊に及ぶ詩集、評論集、随筆集、訳詩集が出されている。その圧倒的な筆力に刮目するとともに、アジアにおける詩人金光林の存在感を改めて認識させられた。その受賞歴も輝かしい。
金光林エッセイ集『自由の涙』には、他にも「自殺その気まぐれな行動」という本格的な〈自殺考〉や、「詩に表現された韓民族の痛みと平和意識」、また「韓国の詩・日本の詩」などの振幅のある主題展開が見られ、どの一編にも詩人金光林の反骨の精神と「恨」の思いが底流している。この詩人ほど、 “日本詩壇”の事情に明るい韓国詩人はいないのではないだろうか。「統一日報」に執筆された「深まってきた韓・日現代詩の交流」の一文などは、韓国の人々への日本文学紹介の好個のエッセイと言える。
これまで私が目にしてきた金光林作品は、具常詩人から送られてきた『韓国三人詩集││具常/金南祚/金光林』(土曜美術社出版販売〈世界現代詩文庫 〉)の一冊の知識でしかないが、『自由の涙』を通じて、改めて金光林の自在な詩風に触れることができた。このエッセイ集は「金光林詩集」として読むことのできる一冊でもある。最後に、〈序章〉としての「詩で書いた詩人論」に触れておきたい。
ここには徐廷柱、柳致環、朴木月、趙芝薫、金洙暎、金春洙、具滋雲など、韓国現代詩の大家たちが名を連ねているが、対象の詩人を切り取る金光林の “紙切り”のような鮮やかな手つき、その軽妙でユーモアのある人物評には、思わずニヤリとさせられる。まさに本領発揮、というところである。その中で「具常」の一編を引用してこの稿を終わることにする。ここにも李仲燮が登場してくる。
具常
焦土になった修道院の広い庭である
壊れたパイプオルガンの音階を
踏み下りる
冬のカラス
薬草を掘りに
散らばった使途たちからは
一寸の福音も伝わってこない
李仲燮がしばらくの間ここを尋ねて去った後
壊れた鐘楼から降りて繰る処だと言った
片方の肺で生きていながら
ふたたび荒野に立ちたいと言っている
裸足の彼は……
(二〇〇七・八・一五)
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