リュック一つで世界を旅する女性。恬淡とし飄々とした、きっぷのいいお姉さん。水崎野里子に抱いた印象は、『多元文化の実践詩考』を一読して吹き飛んだ。学者だ。畳み掛ける文体と明確な主張。世界というヨコ軸、時空というタテ軸の中で、日本の現代詩の位置を示し、期待値と現在地の解離を図示できる人。水崎野里子氏は「世界の辿る航路から外れて粛々と多数の小船で迷走する(?)日本詩界」といった絵柄を想起させる言葉を多用している。
(例 「韓国と中国(台湾)は、既に世界詩人会議の中心的スタッフを輩出しており、参加者も日本より多い。すなわち日本は、海外進出と文化交流では、アジアの一国としての文化的アイデンティティの自覚の薄さ(無さ?)と共に、既に中国と韓国に大幅に先を越されている」PP・196)
(「現在の日本の詩は、詩イズムについてとか、どのような「詩語」であればいいとか、うわべだけの手法にすぎないものを詩の本質と取り違えて云々している空騒ぎにすぎないようにも思う。要は何が言いたいのか、何を発言したいのか、詩人が人生に何を見出し、何を見出していないか、その基本的な点を、現在の詩人はやたらに「現代詩」との掛け声のもとに忘れ、見逃しているように私は思う。世界に通じる詩を日本が提示するとしたら、この詩と根本的な暗黒の世界との対峙を理解し体現しない限り、日本の詩は低迷を続けるだろう」PP・226) (日本側には、薄いテーマにことさらに難解な言い回しを弄した詩が多かった。「日本の詩はむずかしくてわからない」という感想・不満をネパール側のスタッフからもお聞きした。だが、当時、日本の詩一般の状況は「むずかしくてわからない」という批判を、むしろ詩の芸術性、誉め言葉と解していた」PP・69)
水崎氏は、日本詩界はフランスの影響を受けたモダニズムの継承が顕著であると捉え、「西欧の中でも民衆性と社会性を持つブレヒトのドイツ、抵抗と独立のシェイマス・ヒーニーのアイルランド、また、マイノリティとアジアに着目し始めた現代アメリカ詩の影響はほとんど見られない」(PP・19)と述べる。 モダニズム的状況とは(1)「独立性」「反西欧性」がない (2)固有性、あるいは地域性の視点がない (3)一人称、すなわち「私」の恥部を交えての告白が軽視されている (4)社会性がない と定義している(PP・47)
日本の詩界はフランス、そしてモダニズムの影響から抜け出そうと試みてはいるものの、実のところ拘泥し、〈世界的な次元での現代詩の条件・・・「国境問題」と「ポスト・コロニアリズム(植民地以後)」、弱者、マイノリティのアイデンティティの主張と葛藤、国家の問題、独立の願望、飢餓のテーマなどの社会的視点、そして…「フェミニズム」すなわち女であるゆえの葛藤の視点(PP・49)〉から描かれた詩が少ないことを全編に渡って主張し、更に、氏自身はマイノリティ(日本人、女性)という立ち位置から「母国語と同じくらい」話せる英語で発信されていることに敷衍されている。
詩は、個人の直感的認識を何らかの形にしてみたいという美的衝動から、直感的認識を秩序化するものであり(二〇〇六、松尾静明氏講演、岡山)、感動を保持した個人がいかなる文体で読者に伝えようとするかは個人の権限に委ねられているものであるが、水崎氏の座標軸の網で掬われると、「世界の中の小船」の様相がどうしても浮かんできてしまう。
鶴見和子氏は「センター・ペリフェリー論」で、中心(センター)にいては、周辺(ペリフェリー)の苦悩も困難も見えず、立ち位置を変えることが他者理解につながると説いたが、東洋の島国ニッポン、充分にペリフェリーのはずなのに、なぜか井の中のカワズ状態で自分が中心にいると錯覚してしまってい る。体制に従順で和を以って貴しと為していると、やがて牙も角も矯められてしまうのだろうか。「井の 中」は安全で波風が立たない。世界と交流すると船体が揺らぐ。入るのは簡単だが出るのは難しい。詩の世界でもそろそろ鎖国を止めて、大海に漕ぎ出す時期が来たようだ。
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