己の文体で生きてみたい
明喩を捨て
思いのまま解放された詩句で
(「桜の入水」部分)
ひとりの女が生きる真の悦びは 躰ごと解放され 人としての本源を許されること (「爪の桜」部分)
この二つの詩行に注目した。
「己の文体で生きてみたい」という希求と、「生きる真の悦びは」「躰ごと解放され」「本源を許されること」という作者の定義をみるとき、主体としての「己」と一般化された「ひとりの女」とはイメージが重なり、解放された詩句で詩に向かうことと生きる悦びが同化する。
「己」「生きてみたい」と主体的に記された前者と、「ひとりの女」「生きる悦び」と一般化され客観的に表現された後者。これら二つの表現の方法上の流れがこの詩集を成立させている。母として、娘として生きてきた視点を題材とする第一章十七篇と 女性として生きている視点からの第二章十四篇から成っているが、前述した方法上の違いにより分類してみると、次のようになる。
@主体的表現で家族・一族を対象としたもの十篇 A主体的表現で自己・女性を対象としたもの十篇 B客観的表現で外部の人事を対象としたもの六篇 C客観的表現で女性を対象としたもの五篇
作者にとって、あるいは詩集にとってこの分類はいかなる意味も持たないが、読者である私にとって意味がある。一読して詩に向かう作者の強い力を感じ、さらにそれが生そのものの力であることに感応したからであり、この力はいったいどこから来ているのか、どうしても知りたくなったからである。
「垂直にタバコの火を押し当て/消えるまで耐える根性焼き」の刻印を、「神の指紋」として受け止め、「十五のおまえ」が「どこまで堕ちてもさらにその下/この手で受けてやる」という、詩集名にもなっている作品「神の指紋T」「神の指紋U」でみられる凄愴の日々、すさまじい母性。あるいは「〈謝〉の語意を持たぬ一族の男系」のなかで、「幼時には親に嫁しては夫に老いては子に従う/三従の桎梏に/一族の女達は物言わぬまま土になった」(「線香花火の夜」)や、「右を向けば那須颪のビンタ/左からは男体の張り手/この集落に住む者は/吹きおろす刃の鎌鼬に会う」という、人間関係や「土俗と因襲の土」から、「見知らぬ領地を目指した女」(「素足の女」)の、〈解放〉にむかう姿等の詩に接してみると、確かに力強い何ものかを感じとれる。だが、どうしてもそれだけでは済まない厄介なもの、もっと個的 な、一般図式や状況を超えたもの、女性の〈性〉の存在を感じとった。それは私の分類でのA主体的表現で自己・女性を対象とした詩群に、その力の源泉を見ることが出来たのだ。
もう一度 女に生まれてくるなら/こんな爪を望みたい/あの人が思わず指さきを咬むような (「爪の桜」部分)
喉元を灼くように烈しく堪えるものを/かの人の やわらかい一言があふれさせた (「涙する文字」部分)
あの人の情が私を梨割りにしたとき/量れない砂の地層から噴出する驚きに わたしの膝は脆い茎になった (「なんどでも莟」)
未明の蒼い吹き溜まりで/ふいにあの人の腕の強さが甦る (「芹」部分)
あのとき/肩越しにしか言えなかった理由を/あの人が知らないはずはない (「潦ひかる」部分)
それは 身を投じるように別れた人から/しょっぱい手で抜き取ったもの (「釘」部分)
これらの詩行に現れる「あの人」「その人」「かの人」の存在に出会う。この〈人〉は、作品「覦み」での「礫を投げてきた人」であり、作品「釘」での「おおらかに生きていくための知力」を与えてくれた人であ り、そして「身を投じるように別れた人」(「釘」)であるだろう。この〈人〉の存在に想いが至るとき、〈女性〉の内にある情と念が、一気に詩語となって強く烈しく立ち上がってくる。
おまえの朱赤がほしい/真夜中を収斂する水になお燃えるその色を/(略)
嫉妬心などまだあったか わたしの性に (「蘭鋳」部分)
今夜こそ いっそ黒ばらめいた臙脂のマニキュア/焦燥の火薬を塗り重ねて/あの人の背中をひっかき/心の裡をひりひりと言わせたい/ただ灰になるのを待たずに (「爪の桜」部分)
女は識っている/湧き水に映りこむ全身が美しくうるんでしまう瞬間を (「水を汲みに」部分)
はなより過酷な老耄が待つ女は/いのち尽きるまで 唯に散ってはならない
それがたとえ 凋んだ花殻の一本の茎でも (「なんどでも莟」部分)
ここにあるのは〈女性〉の願いや決意ではない。〈性〉の存在がもつ情念であり、根源的な〈性〉の力そのものである。この力は世間の結界を越えようとする。「女は食べてはならない」(「芹」)という食べ物を食し、「近づいてはならない」(「砂廉」)領域に足を踏み入れて行く。
このように女性の〈性〉をみるとき、〈性〉はその内部に自らの詩を発見し、「己の文体」として昇華していくのだ。作品「芹」の全行を引く。
女は食べてはならない 明治の祖母は 伝承通りに 箸を制したものだ 〈芹は血を荒らす〉 の荒ぶ血の語感は 初潮をみたばかりの少女に飛沫を散らした
畦にしがみつき大地を吸うひげ根 正視しがたいまでに絡みあい みだらにもつれた足 スリットを割って 大腿あらわな足が男のながい足に纒わりつく 愛の数だけあるアルゼンチンタンゴの抱擁 を思いながらひたすら洗う
強烈な紫色の灰汁を絞り 晒した粗みじんの塩炒めを 湯気たちのぼる白飯に混ぜこむ芹ごはん 夕凪のからだに もはや箸を制する人もなく 存分に食す
未明の蒼い吹き溜まりで ふいにあの人の腕の強さが甦る もしや血を荒らすとは情を濃くすること 愛欲を避ける嗜みとして 語り継がれた知恵だったのではないか
芹のせいかもしれない この昂ぶりは
生半可なエロティシズムなどふっ飛ばしてしまう、あまりにも見事な詩に昇華する〈性〉の実相ではないか。 「身を投じるように別れた人」「つらい想いを忘れるには/さらなる激痛が要る」(「釘」)という別離。生と死であれ、生のなかであれ、人にはいかようにもしがたい別れがある。その鋭い痛みを、なお、さらなる痛みを加えて忘れていこうとする人間存在の哀しみや寂しさを、〈詩〉に結晶し昇華していく作者の姿勢そのものが、〈詩〉の力は生きることそのものの力であることを、体現しているのだ。この詩集が、深いところで名状しがたい人間存在の本質的な諦観を感じさせるのは、この作者の、痛みを超えて生きる力の発露としての〈詩〉の、その力強い文体にひそかに込められた惜別の情があるからにちがいない。
行きたい処に行けばいいのよ あなた 生きたいように生きてみるわ わたし
作品「ふたりの女」の結語の詩行は、冒頭でみた「己の文体で生きてみたい」と、「ひとりの女が生きる悦び」という解放された生のかたちが、詩に結実し、詩に昇華した〈性〉の、もうひとつの行きついたかたちでもある。
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