第二次大戦が日本の敗戦で終了した時、浜田知章は二十五歳だった。
終戦時二十五歳とは、戦争をまともに引き受けざるを得なかった年齢であり、男性では大部分が徴兵され、しかも戦死率の最も高かった年齢である。浜田知章は二十歳で現役徴兵、陸軍兵士としてアリューシャン列島、オホーツク海などに面した北方戦線にいた。同年齢の戦友が多数戦死したことが考えられる。
俺は僅かな軍隊経験と/復員後は/がむしゃらに働いた
詩集『海のスフィンクス』の「佐久間ダムで」から拝借した三行であるが、僅かな軍隊生活、というのは謙遜の言葉だ。二十歳からの五年間は、兵士として戦争に参加、生と死の間をくぐっていた期間だった。その間に彼は何を考えたのか。晩年になって書かれた詩集『海のスフィンクス』は、その問いの答えを鋭く輝かせる。「がむしゃらに働いた」と彼は書いているが、その働いた内容は、生活の資を得るためばかりではなかった。平和のために闘うことと詩を書くことが、そこに含まれていた。『海のスフィンクス』の中の詩「ヒロシマから鷺宮まで」の最初の詩行を書き出してみよう。
作家大田洋子/が、ヒロシマで被爆した/半月後/朝日新聞(昭和20年8月30日付)にのせたルポルタァージュ/――海底のやうな光 原子爆弾の空襲に遭って――/の一文を/北海道滝川/小高い丘のガランとした陸軍廠舎/敗戦解散後の事務室で/俺は読んだ/突然! 冷水をあびたよう/一瞬息が止まった/(中略)この時を期して 俺/とヒロシマと 時空をこえ決託したのである。
その頃、浜田知章は北海道の陸軍部隊にいて、敗戦による部隊解散後の残務整理に当たっていた。彼は事務室にいて、敗戦から半月後の新聞に載った原爆被爆作家の手記に衝撃を受ける。この時から原爆の問題は、彼の問題意識に運命のように重なった、と詩は語っているのだが、読者は、この詩行をここまでの理解で終わらせてはならない。およそ帝国陸軍の無数の兵士の中で、生活以外のことを考える習慣を持つ者は、稀有だった。すでにこの時、浜田知章は兵士にして詩人たる存在 だった。この詩の中に、戦争中も思考することを止めなかった思想者が一人、屹然と立っている。
最初に原爆が広島に落とされた時、新型爆弾と報じられた。人々は、新型爆弾をピカドンと呼んでいた。ピカドンを原子爆弾と最初に認識したのは、広島の街を実地検証した日本の科学者であった が、新聞紙上で原子爆弾の呼称が出てくるのは、八月三十日の大田洋子の文章が最初であったかも知れない。浜田知章は早くも、ことの重大性を察知するのだ。
一般に私たちが原爆を知り、大田洋子の「屍の街」を読むのは数年先のことである。ほとんど同時に、原爆被爆者の峠三吉の詩集、原民喜の小説や詩にも触れた。原民喜が東京吉祥寺駅近くの中央線で鉄道自殺するのは、一九五一年三月十三日である。原民喜は、前年起きた朝鮮戦争の長期化と、核兵器使用の危惧から深い絶望に落ちた結果の自殺と思われる。大阪にいた浜田知章は、この知らせを聞くや、すぐに広島を訪ね、ケロイドの少女を見て胸を打たれ、帰阪して自己出版の詩誌「山河」に、原爆特集を組み、それを東京鷺宮に移っていた大田洋子に送るのである。当時の汽車の混みようは、現代からは想像もつかない。客室に人が溢れ、乗りきれない者が列車の屋根に昇り、屋根の上にしがみつくようにして運ばれた。切符は、朝早く駅で並ばなければ手に入らない。大阪から広島まで、六、七時間かかった。だが浜田知章は断行する。詩「ヒロシマから鷺宮まで」は、原爆禍の最初の表現者であった大田洋子と、浜田知章との関係を綴った詩であるが、行間の奥に浜田知章の抜群の行動性と、無類の現状確認主義が表現されている。
浜田知章には、基地反対闘争を詠った「奴隷基地」「一九五三年内灘」、三池炭鉱闘争の詩「地底葡うコンミューン」、安保闘争の時の「安保闘争・六月行動」などの詩があるが、いずれも彼のしたたかな行動性、現場にあろうとする現状確認主義を語っていて、戦後詩に鮮やかな軌跡を描いている。
さてまたその頃のことを描いた詩に、作家鹿地亘が、米軍情報部に不法監禁されて、拷問を受けた事件を語ったものがある。米軍は鹿地亘を、共産党関係の情報を得るための協力者に利用しようとして、彼を米軍施設内に連れ去ったのである。「拉致」が、その詩である。
「このあたりで、鹿地亘先生が拉致されたんや」「キャノン機関、 アメリカの」 /鵠沼海岸駅近くで/古本屋をひらいているオヤジが/俺の前を5、6歩歩いていたが/立止まってふり向いた/海沿い松ガ岡の砂道の、11月/閑雅な昼下り
その時、……と浜田知章は詩を続けるのだが、この詩は三つに分かれる。一つ目は三好十郎の 「炎の人」という劇を劇団民藝の舞台で見た感想である。劇中、画家ゴッホを演ずる主役は、当代随一の新劇俳優滝沢修である。二つ目は、鹿地亘の拉致監禁を描き、鹿地亘を監禁から解放するのに力になった、山田重二郎の手記を載せている。山田重二郎は当時、米軍施設に勤めていた青年であり、自殺を図った鹿地亘を助け、命がけで不当監禁の事実を関係者に通報した人物である。三つ目は、浜田知章のその頃の活動が描かれる。反戦同盟をつくって活動した関西区民会議のことであ る。巨漢の右翼青年らしきに柔道で投げられて逃げたり、安保条約問題で仲間の人と外務省へい き、大臣に面会したりしている。この三つの構成は、振り返ってその時代の自分を語ろうという目的を持つが、幾つかのことがらが詩の行間から立ち上がってくる。一つは、浜田知章が、この国の文化の最も高い部分に触れることで、豊かな肥やしを得て、絶えず自分を耕し高めようとしていた、ことである。詩「『町医者』三題」では、ケーテ・コルヴィッツ展覧会、中条(宮本)百合子が大好きだった文学少女のことや佐多稲子のことなどに並んで、小児科医で評論家であった松田道雄に会った時のことが書かれている。彼らから吸収したもので自分を満たしながら、彼は「がむしゃらに働いた」のだ。働くとは、時代に鋭く対応し、平和と民主の世を実現するために活動し、詩を書くことが含まれていた。ちなみに鹿地亘が拉致された翌年四月、前年結んだ講和条約が発効し、日本の独立は樹立されたはずだったが、鹿地亘は監禁されたままであり、彼の解放はそれから半年も経ってからだった。これも関係者の努力が実を結んだためであり、独立後も米国支配の変わらないことを、私たちに印象づけた。
表題の「海のスフィンクス」は、篇中の最初の詩であり、詩の中に戦艦「長門」を詠った知人の短歌が出てくる。
砲身に長き藻靡き樓折れて横たわる長門魚数多棲まわず
昭和二十九年三月一日、米国は南太平洋ビキニ環礁において、大規模な水爆実験を行った。その時、敗戦後まで生き残って米軍に拿捕されていた長門は、実験標的にされ、水爆の数千度の高温を浴びて、溶解した鉄の塊になり、環礁の海底に沈んだ。水爆爆発の瞬間、炎の真っ赤な闇に、長門の巨体は影絵のように揺れて消えた。だが、海底に沈んでいるのは、長門だけではない。戦争で死んだたくさんの若者の兵士を乗せた、数え切れない軍艦船舶が太平洋各地に存在する。その若ものたちの中の「ひとり息子の死 に号泣した 一人の母が 真命(まいのち)のかぎり 祈っていたことを君は知っているね、その」 思いに私たちの平和への思いを重ねて、海底に「若もののスフィンクスをつくろう 若ものの兵馬俑をつくろう」と結ばれているのが、詩「海のスフィンクス」である。高齢に なった詩人の平和への祈りが、終章で高鳴っている。
詩集『海のスフィンクス』は、戦後六十三年を、戦争反対と平和確立に向けて、一片の妥協もなく歩き続けた詩人、浜田知章の鋭い横顔を見たような気のする詩集であった。
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