1 詩という「装置」
詩を書くということは、無意識を意識に転化させることにほかなく、すべてが「詩」という「装置」を用いた「虚構」なのだと私は考えています。外的世界の現実、内的世界の現実、のどこに自分の魂の充足を求めるかは、わたしたち、それぞれが決定することです。言語を芸術として扱うことを決意した詩人にとって「幻想」という異種空間は、人間の内的経験の生々しい現実を創造的な言語空間へと誘う「世界」です。その空間における成果が宮田登美子さんの詩集『竹薮の不思議』です。
2 自己を超越していくための方法として
宮田さんは、「明晰夢」を体験されいるのかもしれません。「明晰夢(めいせきむ)」とは、睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことです。前頭葉が半覚醒状態のために起こると考えられ、「明晰夢」の内容は見ている本人がある程度コントロールできるとされています。宮田さんは詩人として経歴の長い方ですから、おそらくは眠りに入る前に、詩的な構想を立てていると思います。
「夢」という睡眠における詩の言葉をどのような方向で読み取るか、その方向づけをしておこうと思います。私とは異なる意見の方もあると思います。
まず、『REM睡眠の発見』のウィリアム・デメント(William C. Dement 1928?)(翻訳・大熊輝雄 おおくま・てるお)によると、「人間は、睡眠期間中律動的に交代で出現する、REM(レム)睡眠と NREM(=ノンレムnon REMと発音する)2種類の睡眠を経験している。眠りは意識の無いNREMの状態で、REM睡眠は真の意味では睡眠ではなく、覚醒しているが麻痺した幻覚を体験している状態をいう。」覚醒と睡眠の本質的な相違点は意識があるかどうかということです。深い眠りはNREMの段階が下降していくことであるということです。
次に、睡眠中に経験した夢を作品化するということは、「シュールレアリスム」の手法の影響が考えられます。諸説がありますが「シュールレアリスム」が正式に誕生するのは、一九二四年に詩人アンドレ・ブルトン(1896-1966)が発表した「シュールレアリスム宣言」からでしょう。「シュールレアリスム」の定義の提唱は、「理性による支配をまったく受けないところで、また、あらゆる美学的、道徳的先入観の外で、記述された思考である」といったことが記されています。現在の日本におけるシュールレアリスム表現の言葉の使われ方は、「既存の状態を超越している」というような意味で「シュールな」と用いられることが多いと思います。
詩の創造という行為は、時間を扱うのではなく、言語空間を「世界」として差し出す行為であろうと考えています。詩はあらゆる現実の幻想を追って「見つけようのないもの」を探求する「世界」なのです。
3 ミステリアスで「シュールな」作品世界
詩集は、I・7編、U・9編、V、7編の 編からなります。全体の印象は、今、このとき歩いている道が、かの地(黄泉の国:常世の国)へと続いていてそこへ行っては、親しかった死者の人々と出会っては、戻って来る、というような出来事が、普通に日常の出来事として書かれているミステリアスで「シュールな」作品世界です。すでに亡くなった人との思い出を慈しんで、もう一度作品世界において最期の別れをしているのです。人の命のありようをどのように受け止めるかを考えさせられもします。
(1) 七人の死者たちとの邂逅
Tにまとめられている7作品に登場する人々(死者)を順に挙げてみましょう。伯母・祥子さん・祖母・母・母・Kさん・兄。すべてが亡くなっている人々です。このなかで、「イカダの上で」という祖母との邂逅は、幸福な時間を紡いでいます。祖母は(もっと上げようか。たくさん食べるといい)と言って、食べ物をくれるのです。それは不味いのですが、(密かに眠らせていた悲しみや痛みが急に目覚めるのではないかと思われるほど、それはひどく暖かだった。)のです。現実の痛みを癒してくれるような暖かさだったのではないでしょうか。
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巻頭の作品「閉じられる時」は入院している伯母を見舞ったときのことが書かれています。現実のようであって、そうではないのが、最終行の1行で明らかにされます。それは、
「死に行く人は物凄く淋しいのだと聞いたことがあった。」
という感情が、見舞うというこの光景の外にあるからです。伯母の最期の場面で、(わたし達が生きている世界はさまざまな矛盾や不透明な未来に取り巻かれているのだ ・ 行)というような感情、それ自体が現実に見えていた「幸福な日常」への疑問としてさしだされています。ここでは、普段の生活で見えていた感情ではない別の感情に出あったことによって、現実の光景を超えていきます。
「息子たちにも恵まれ幸せだった筈の優しい伯母」
「わたし達が生きている世界はさまざまな矛盾や不透明な未来に取り巻かれているのだ」
という夢の体験の生々しい真実に迫ります。すべては、この言葉に尽きるといってもいいでしょう。
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「帰ってきたひと」という作品が、Tの四番目にあります。これは、幼いときに亡くなった母親のことです。この作品を読んで思ったのは、帰ってきたのではなく、作者が行ってきたのだ、と思うのです。もう一度会いたいという思いが募って、彼女は幼いときに死別した母にもう一度会いに行ってきたのです。幼い日、死んだこともわからずに別れた母のことが、嘘であったのではないか、という思いが強くあって、幼い日のその時間へ現在の心を持って行ってきたのです。
「思えば、あれが母の最期だったのだ。とすれば此処にこんこんと眠り続けている母にそっくりのひとは誰なのだろうか。」
それは、(母)の姿に違いないのですが、それを問う作者は、それが、いずれくるであろう自分の「死の姿」であることに気づいているのです。悲しみの極みです。そして、母の死をここで受け容れたことによってやがて自分に訪れる死をも受容する覚悟をしているのです。ここには、やってきた命を知り、去っていく命を覚悟する、命への畏怖と慈しみがあります。
(2)ミステリアスな作品群
Uにまとめられている9編の作品は「誰」という特定した人物ではなく、「異界」との接触に依る作品です。T・U・Vの作品全てが散文詩ですが、ここに収められた作品は、ミステリーの短編といってもいいような雰囲気があります。
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「風に囲まれて」から、第2連の4行・5行・6行を引用しましょう。(ひとは先立った人によびかけて生命を蘇らせるために生かされているのかもしれない)という光景に出会ったときの怖れとおののきが、「風に囲まれて」にはあります。
「足もと以外は何も見えないから確かめようもない。ひとは先立った人によびかけて生命を蘇らせるために生かされているのかもしれない。わたしは目を瞑った。静けさだけが在った。それにしても全ての音が絶えたときの静寂は怖いほどに感じられる。」
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「亀裂」はまさしく、ミステリー詩です。4連 行で長くはないのですが充分に不思議と恐怖の画面が描かれていて、第三者の「わたし」がいて、おもしろい詩です。
「何気なく過ごしている日常に不意に訪れる亀裂。そこに真っ逆様に落ちていく瞬間を予感したことはなかっただろうか。思いながら目を閉じた」
(3)再生を果たす詩群
Vの作品は、詩人が亡くされた娘さんへのレクイエムです。
母としての悲しみが、溢れて、辛く苦しい作品群ですが、決して自分自身の感情を吐露することによる、浄化などというものではなく、自己を超越した強い意志が貫かれています。特に「わたしは誰?」という作品は、優れていて、こどもを育てる若い世代の方が読めば、共感や励ましになるだろうと思います。幼児教育や児童心理、また、「育児」というものの重要で見落としがちな面をも捉えて母親のこころを理解するうえでも、参考になる作品であると思います。後半にあるこの詩集のタイトルである「竹薮の不思議」にも通じるのですが、そのとき気づかなかった、その場所へ降りて行って、自分をみつめなおしたい、という激しい希求が表出されています。それは、現実世界で深い傷を負っているからです。生命というのは、内的な現実をみつめていくことによって、こんこんと湧き出てくるように思います。宮田さんは、母や、兄や、最愛の娘さんを失いました。そのことによって、生命の根源へ、意識を降下させていきます。
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「わたしは誰?」から、2連全行を引用します。終連の終行は自分にさえも大変な毒を効かせています。
「二人はいつも一緒にいて、はるみは姉さんらしくつぐみの手を洗ってやったり、着替えをさせたり、料理まで作って食べさせている。「そんなことはママがするから、はるみは自分の好きなことをすればいいのよ」わたしが言うと「はい、わかりました。先生」と丁寧に答えて、しばらくはレゴなどして遊んでいる。途方にくれて娘たちを眺める日がここのところ続いている。」(第二連)
「どうやら子供たちにはわたしでない別の母親がいるらしかった。」(最終連の終行)
Tにおける、内的現実のなかで知った出来事(テクスト)によって(わたし達が生きている世界はさまざまな矛盾や不透明な未来に取り巻かれているのだ)という実感をもたらし、Uでは、(何気なく過ごしている日常に不意に訪れる亀裂)という異界とのミステリアスな接触を果たし、Vにおいて、言語芸術の世界、という空間を表現するに至っています。宮田登美子さんの「夢」という「幻想」の世界は、無意識の底に鎮められているたくさんの「声」をあなたの衷にも、喚起させたことと思います。「幻想」という異種空間は、人間を生き生きと生かしている創造的な言語空間の「世界」です。この内的体験は強靭な精神力をもってして始めて可能ならしめるのです。
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