詩 の 原 故 郷 を 求 め て
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『天網』へのまなざし
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日原正彦
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  星野典比古さんの詩集『天網』は、その冒頭におかれた作品「天網」から標題が選ばれている。
「天網」というのは周知のように、『老子』第七十三章にある「天網は恢恢、疎にして失わず」(天の法網は広く大きく、目は粗いが取り逃がすことがない)によっている。このことばは一般には、天は悪を決して見のがすことがなく、悪は必ず滅びる、といったような勧善懲悪的な解釈が行われているが、真の意味はそれほど単純なものではない。それは究極的には、人間が人間を云々することなどできるのかという問いかけ、いわゆる「人為」のさかしらを批判した深遠な哲理、「道」の思想に基づくものである。作品「天網」については、鈴木比佐雄さんの丁寧な「解説」が挟み込まれているので、これ以上は述べないが、このようにこの詩集全体に、老子の説いた思想背景がうかがわれる、ユニークな詩集である。
  老子の思想は、善人だけでなく、悪人をもその存在を許す大きな容(かたち)の存在を説いている。そして、柔弱なるものこそ却って強靱なのだ、と説き、人間関係においても、このように「退く」態度の大切さ、そのことによって逆に、相手を大きく抱擁する智恵を主張している。政治の世界においても、真に上を行くものは、却って下を行くものなのである。星野さんのどの詩篇にも、このような老子の思想的背景が感じられ、下手な解説をするよりも、一つ一つの作品をまず読んでいただくことであると思う。そのうちの一篇、「蚊帳の外」を挙げてみよう。

また刺された! 蚊から猛撃を受けるものの叫びだ 
不思議と私は現在蚊に襲われることがほとんどない 協調性を宿したのだ

私は学生時代勉強が嫌いだった 数学の時間も 物理の時間も 文学書を読んでいた その悪癖は増幅し 友との会話も惜しみ 哲学書にかじりついた 結局私は 蚊帳の外 に追いやられた

蚊(孤独)との戦いの火ぶたは切られたのである 武器もない 逃げ場もない 立ちつくすのみだった蚊は無防備な私をほくそ笑んでいた しかし蚊は追い払わなくともよいことを知った 私の鮮血で腹部の膨満した彼らは自ら飛翔能力を失って行った

蚊帳の中で談笑する者に私はそっと殺虫剤を差しいれて去った 一歩一歩確実に進む 蚊を服従させたのではなく 唯一無二の親友となり そして彼らは教えてくれた

蚊帳の外 とは仲間外れでも 差別でもない 自由で制限のない広大な飛翔の世界なのだ と

  「蚊帳の外」におかれることを甘受することによって、却って、蚊(孤独)との戦いにも終止符を打
ち、自由で制限のない精神のあり方を手に入れる。この場合の蚊(孤独)との戦いもまた、決して無理にこちらから攻め込むというのではなく、却って相手を受け入れることによって、守りに徹することに
よって、逆にこちらの勝利と協調を呼び込むのである。
  老子はまた、個人間のことだけではなく、国家間のレベルにおいても、人為のさかしらの果てに引き起こす暴力、掠奪、そして戦争を憎んだ。もしどうしても戦わねばならない時は、人殺しをすることを悲しみつつ、守りに徹し、勝利が得られてもそれを讃美しないこと、戦争とは葬式と同じで不吉なものであることを自覚すること、「戦争の悲惨さを真に自覚し、戦うことに悲しみを抱いて、できるだけ犠牲を避けようとする」(福永光司の解説による)ことこそ究極の勝利への道であると説く。この考え方は、日本の専守防衛論や、憲法第九条の精神に通底するものを持っていると私は思うのだが、この「蚊」を国家間の戦争を引き起こす「作為」と置き換えて読んでみてもよいのではないか、と思う。「蚊帳の中で談笑する者」は、巨大な軍事費を費やして安全神話に浸ろうとするどこかの大国を暗示させはすまいか。
  以上の例のように、この詩集のほとんどの詩が、老子の、柔弱なるものこそが、却って強靱でしぶといのだという、逆説的な人間観を体現している。それらは素直な直叙体で語られ、喩的技巧を弄すること全くなく、まさに老子の言う「樸(あらき)」のことばで書かれ、詩というよりは、一種の告白書、または教導書と呼んでもいいくらいである。

愛に飢えるとは 温もりに飢えることではなく 魂の適温を察知し冷却しようと近づいてくる者を
冷血と退けているだけなのだ と     ( 「愛」より)  

小さくなればなるほど細部が見えるようになる 我々はいつでも手段に訴えられる 
もう私は大きくならなくていい なりたくない   ( 「蟻の一穴」より)  

私は 天に可愛がられる存在になりたい 勇者になどなりたくない 弱者のままでいい
  ( 「勇者」より)  

  冷たいものこそ温かい、小さいものこそ大きい、そして弱いものこそ強いのである。

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