表紙に二羽の鳥がいる。二羽は、向こう側をのぞきこんでいるようでもあり、同じ所に止まり合わせたようにも見える。
豊福みどり第二詩集『ただいま』を読むと、まずその言葉たちが平易であり、それでいながらとても凝縮されたイメージをこちらにぶつけてくることに驚かされる。
言葉たちばかりではない。著者の立ち位置も、気負いなく、世人と自分をことさら分けずに「普通」のところに存在する。そこには何人をも排他することのない懐の深さがある。そして、読者を自然に著者の今いる場所に連れて行ってしまう。「もっと身軽だった/二の腕も/太腿も」で始まる「いつの間にか」、「死ぬということは/とてもこわいけれど」で始まる「などと」、書き出しから自然に読者を共感させてゆく気負いの無さ。この自然体こそが著者の持つ大きな魅力の一つである。「真実」という詩を引用する。
真 実
今日のコーヒーの色が
緑であることも
昨夜の流れ星が ヨーヨーであったことも
愚直な月は 知らない筈だ
難解な言葉は何一つない。それでいて、日常の中から一気に異物を抽出し、読者に自分を振り返らせる力がある。言葉が伝えるストレートなパンチが一息に読者を詩の世界に引きずりこみ、そこで私たちは、コーヒーは茶色だと「思っていた」自分、流れ星は流れ星という物体だと「思っていた」自分と唐突に出会い、はっとするのだ。「愚直な月」という言葉がストンと胸に落ち着くのは、詩人が産み、選んだ言葉たちのマジックのなせる賜物である。
もう一つ、この詩集が見せてくれる魅力に、「名前を知る」ということの素晴らしさがある。
或る日とうとう意を決し 草むしりをするにあたり 雑草の名前を調べる
母子草(ははこぐさ) 仏(ほとけ)の座(ざ) 立浪草(たつなみそう) 大葉子(おおばこ) 小判草(こばんそう) 捻(ねじ)り花(はな) 踊子草(おどりこそう) 薺(なずな) 錦草(にしきぐさ) 耳菜草(みみなぐさ) 常盤櫨(ときわはぜ) 露草(つゆくさ) 繁縷(はこべ) 蚊帳吊草(かやつりそう) 西洋蒲公英(せいようたんぽぽ) 垣通(かきどお)し 雄日芝(おひしば) 雀(すずめ)の帷子(かたびら) 矢筈草(やはずそう) どくだみ かたばみ 滑りひゆ 大犬の陰嚢(ふぐり) 野襤褸菊(のぼろきく)
この庭には そうそうたる名前の雑草が居並ぶ それぞれに生きる姿がある 私の心算では とても抜けやしない (「雑草」より)
雑草が「名前」で著者と結びついた瞬間、それは「抜けやしない」だけの存在感を持って世界に君臨する。名前を持った瞬間、自分のテリトリーの内側にその「雑草」たちが入ってくる。「何でもなかったもの」がかけがえのないものに変わる瞬間を堪能させてくれる詩である。他にも、ねこじゃらし、椋鳥、カンナなど、この詩集の中のほとんどの植物や動物は、「名前」で以て語られる。「名前」を媒介として著者はひとつひとつを風景の中に刻み、私たちの前にいきいきと提示してくれるのだ。
しかし、名前を「知る」ためにはじっくりと見なくてはならない。先入観や通念などに惑わされず、見、観察しなければならない。見て、そのものをふかく知ることは、そのものが自分とは絶対的に違うものであるということを知ることでもある。孤独な試練に、しかしその目は波立つことなく、静かに物事を見つめ続ける。静かな目。その根底に流れているのは多分、世界に対する深い愛だ。しかし、その愛の深さゆえに著者は一人で立たなくてはならない。
いつまでも 親鳥が 私を産んだことを 忘れないように 再会した時は 二羽でじっと にらめっこをする (「ただいま」より)
にらめっこは自分と他者がいないとできない遊戯である。母への想いを「見る」ことで現し、しかし見ているがゆえに、自分が母でないこと、母もまた自分になりえないことを理解せざるを得ない。
ツバメにもカーナビのような 精巧なメカが内蔵されているのだろうか 「南の国」という箇所を押すと 何千キロという旅の行程が示され 「日本に帰る」を押せば 私の家が「ゴール」となる 何の目印もない海の上を 感性だけを頼りに ひたすら飛び続けるツバメの 強靭でしなやかな身体 鋭敏な羅針儀 (「ツバメ」より)
そうだ 今日は あの太陽が沈む方向へ 帰ろうと思う
(「行き先」より)
自分の立っている場所に常にひとりであるからこそ、著者は常に帰る場所に敏感である。自分の世界を、ゆっくりと満ち足りたものにしていきながら、著者は帰る場所をいつも確認しているように感じられる。
「ただいま」と言って 巣に戻る私を 三本足の 心もとない足どりで 迎えてくれる
(「ただいま」より)
そして帰る場所は常に、母のいる場所だったはずだ。しかし、最後まで読み進むと、そこには母との別れがある。削られた言葉と表現で昇華されてはいるが、帰る場所を失った著者の悲しみが胸に迫る。これからどこへ帰ればいいのか。この答えを見せてくれるのが「袋」という詩であると思う。全詩を引用する。
袋
きょう 袋を作った 入れたものが こぼれ出ないように 丈夫な布にした
袋をゆらゆら揺らしながら 午後の道を歩いていると 子守唄のような風が 私の脇を吹き抜けていった その風を少しだけ袋に入れた
しばらく行くと 動かない蟻を一匹 袋に入れた あとは 入れるものがなかった
帰って 皆が寝静まった夜半 私が そっと 袋の中に入った
心ひかれるものを少しずつ、少しずつためながら、最後に著者は自分の作った袋の中に帰ってゆく。この詩集は母と別れ、心の帰る場所をなくした著者が、次に帰る場所を自分自身の中に見出そうとしている、新たな出発のための一里塚なのではなかろうか。
読後、本を閉じて表紙をもう一度眺めると、二羽の鳥は親鳥とその子になる。永遠に対話し続ける二羽の鳥に。よく見ると両見返しにも鳥がいる。飛んでいくのは小鳥だけである。「ただいま」という丸みを帯びた題字が切ない残響を伴って、なお光りながらうたいつづけている。
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