壷阪輝代さんの詩集『探り箸』は、一言でいえば〈樹間距離の美しい詩集〉である。樹間は、壷阪さんの場合、我と他者の間(ま)のことではない。(それは、人生の達人の熟練のわざであるから)壷阪さんの詩篇は〈わたし〉と〈わたしの中のわたし〉との、間(ま)、が美しいのだ。
標題作「探り箸」の「箸」は、間(ま)を希求し続ける作者の、精神のアンテナといえる。「さぐらなくても」 「まっすぐに/目的を掴んでいた」わたしの中のわたしが常に最深領域に存在している。この、原存在を超克してゆくプロセスから名詩が産出された。
「人ひとり/生きる場所をさぐったとき/他人の器にまどわされ/果てがみえはじめたとき/そして/職を辞したとき」詩人は箸という精神のアンテナだけは、片時も離さなかった。生きることにひたむきだった直進性の自我に、いくどもたちかえり、悩み苦しみ、そこから、柔軟性のある視力を獲得した。
壷阪さんの詩には、さまざまな比喩で、原存在が登場する。「鬼の行方は」の「結んだリボンのあたり」に触知される「角のようなもの」。「影 踏みかさなる」の「三歳のうすみどりの影か」「十九歳の灰色の影か」さらに「ひとの影にわが影を/からませて生きることを知った/いまのわたし」。この「いま」は、たちまち過去へ輪転する淋しい危機を孕んでいる。「菰(こも)巻き」では「春先には菰もろとも焼かれることになっている」「松毛虫」。何という淒絶なリアリズムだろう――。
なかでも特に私が魅了されたのは「水の庭」と「流れ星の時間」に明視された原存在である。「水の庭」では「闇を抱いた伏瓶(ふせかめ)」として。「流れ星の時間」では、はっきり「こころの底の底に/ひっそりと置かれた受け皿」と表現している。これらの詩篇は、魂の修羅場が重なりながら流れていて、複雑な人生の地形をみせている。
しかし重すぎない。肉厚でもない。ま昼の流星群のように、みえるけれどみえない。生なましさは洗い流されている。高度なテクニックと天性の純心が合流して力量となった。それは、たまらなく美しい清涼感を詩集全体に漂わせている。装幀の紫も加わって。
読みながらふと、私のペン先から、能の言葉がでてきて、余白に書きこんだ。
「我が心の我にも隠す安心」
能の評論家が「離見(りけん)の見(けん)」を解説した言葉で、昔から大好きだった。私は、これを創作上の〈第四の眼〉と解釈した。
能役者は、まず素顔のままで演じる魂を肉付けする。その上に能面をかけて演じる何者かの魂魄に成り自他を生きる。それを観客席から視ている己れがいる。ここまでなら第三の眼だが、更に、内的時間の運行の全てを、魂の総体を、その人生の全景をみ渡し認識してゆく自己がいる。これが第四の眼となる。
この認識が「我が心の我にも隠す安心」。隠すとは避けることではなく、超克し陶汰すること。安心とは無我無心の精神空間。壷阪さんは、これを、えもいわれぬ成熟の清涼感として放香させてくれた。
それだけに一層、超克してきたものの重さや今も立ちあう痛苦などに胸を打たれる。
「水が欲しいと叫べない花 水がある場所を探せない花」
これは、「あした咲く朝顔の蕾」がよぎったことに発する想いである。一体誰が「一杯の紅茶を飲む」いこいのひとときに、朝顔の蕾を思いうかべそこに、このように激しい飢渇の苦しみをみるだろう。花自身の生命の源を探せず苦悩する心の地獄をみるだろう。
これは作者自身が、最小限の言葉でもらした、孤独の深淵からの無声の絶叫であろう。
共感し尽くしてもあふれる生の淋しさだ。「わたしは/誰の想いが/いつの日に落とした/ひとしずくなのだろう」。「流れ星の時間」の一節だが、思考の地底に「母」がいる。あるいはまた「細胞」では「心を弓形にして待つ/ちかくで赤ん坊が泣いている/あれは三月生まれのわたしの声/因果の種子を蒔いたのはいつ/深いところで肥えていく畏れの土壌」。よみつつ全身を貫く痛切がくるが、「母」は原存在にかぶさる母体であるから、詩人は温かな飛躍の心で、出自の来歴と不動性にたじろがず直面してゆく。
A型の母がO型の子に、ゆるぎない生命への信頼を力として輸血する「約束」という詩は、「母」の魂の根源を子に注ぎつくす熱気が澄明に伝わり、感動に息を呑んだ。
壷阪さんの、この心の箸使い、箸さばきは美しくてたくみだ。たくみは器用という意味ではなく英智である。箸に触れるものへの、無上の情愛があって、清涼と成るのだ。
山本十四尾氏は帯に「娘は母の箸で五味を育まれる」その「伝承」の美を絶讃している。鈴木比佐雄氏は解説の中で「生きることの勇気を促した初めの一歩は、箸使いを覚えさせてもらったことだという」と、詩人の逸話の核を紹介している。
詩人は、箸使いを身につけながら言葉づかいも鍛えぬいていったようである。
五味は仏教では善導の喩えだが、私達凡夫にとって味覚は四苦八苦の一つである五官を揺さぶる。「生・老・病・死」と「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」。この四苦八苦の最上に「生」を置いた真理は壮絶である。五官は、五陰盛苦となる。五官の炎が盛んであるために苦しまなければならない人間の煩悩を、捨てず汚さず消さず忘れず、人生の五味という、生の至福へ善導してゆけるのは、人間だけに与えられた勇気と愛情の力だろう。
「指し箸」「空箸」「すかし箸」等には「約束」の「母」から、慎み深いエロスの五味もうけついだようで、どきどきする。
『探り箸』は、末尾の名詩「縁があったら」までの三十七篇が融合された、いのちへの、えにしへの恋愛詩集であり、これからの壷阪さんの母体領域として深まってゆくだろう。
2008年8月 詩人 三島久美子
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