九五年八月下旬の夕方、私は家族と高知県中村市(当時)のトンボ自然公園を訪ねていた。長い治療を終えて退院した娘へのお祝いとして四国一周のドライブ旅行を計画したのだが、その初日はフェリーで到着した宿毛を起点とし、足摺海底館、足摺岬、中村市のトンボ自然公園を回って高知で一泊することになっていたからだ。
こどもが喜びそうな名前の公園だから立ち寄ってみようということで、あまり詳しく下調べをしないままやってきたのだ。しかし一連のテーマパークとは違い、休耕田を利用して自然のままの姿で公園に仕立てているのを見て、親である私の方がここをすっかり気に入ってしまった。ここには原色の壁や仕切りもなければ耳障りな音楽なども流れていない。キャラクターの着ぐるみもなければ派手な売店もない。あるのは、残暑の夕暮れに匂い立つ草いきれと湿気だけなのだ。この魅力的な公園のある中村市が西土佐村と合併して二年前の四月に生まれた町こそ、山本衞さんの暮らす四万十市である。
四国もまた県庁を置く都市は次第に個性を薄めてゆき、ほかの都市と同じようなバイパス、同じような量販店、同じようなチェーン店が軒を連ねるようにしてスプロール現象を起こしている。しかし、県庁所在地を離れると、まだこのような骨太な公園を作ることのできる町がある。加えて四国は、山と海辺とが共存するところの多い地域である。もともと日本列島そのものが新期造山帯に属しているせいで、山地から海岸までの距離がおしなべて短い国なのではあるが、九州の半分以下の広さしかないのに九州よりも高い山を持つ四国だからこそ、棚田や段畑があちこちの斜面に張り付くように存在しているのである。衞さんの暮らしは、このような土地で営まれている。
二篇の「青海苔のうた」では海に近い汽水域が描かれ、シオマネキの動きを祈りになぞらえる海辺の人の目がそこにはある。と同時に「峡谷の村」では
日はまだ中天に輝いているはずなのに
すでに夕昏れがあたりを包み
乳色の風がそよぎはじめる
一日の日照時間きっちり一刻半
四季を通じて変わらない
(「峡谷の村」一連)
と、わずか五行で山村の情景を余すところなく読者に伝え、山の人の目を際立たせている。また
俺(おんだ)らぁ ハゼにゃなりとうなかったがじゃ と
言いたそうな顔つきで
からだいっぱい反逆(いごっそう)めいた目ん玉ひんむいて
(「沙魚(はぜ)に」二連)
と方言で味付けをして、匂いをぷんぷんさせた海を読者に突きつけたかと思えば、「沈下橋」では増水時に水没するささやかな橋が架かる上流の過疎に震える集落を囁く。ここで描かれているのは、このように骨太で山も海もある土地だ。
そんな地域に生まれて生活を続けてきたからこそ衞さんは自然を愛し、自然をモチーフにした作品を作り続けてきたには違いないのだが、ここでもうひとつ大切なことは、衞さんが山だけを描く書き手でもなければ海だけを詠う書き手でもないということだ。山も海もひっくるめた生活地域をいつも見据えているということに気づかなければならない。
これは前述のように、実際この地域が山と海辺との間に大きな距離感を持たず、山と海とが近しい関係にあるということも勿論理由としてあげられよう。衞さんの生活の範囲内で、山と海とはかけ離れた対極のものではないのだ。また、衞さんが公立小学校の教員であったということも理由として加えられてもいいだろう。同じ教員であっても、転勤のほとんどない大学や私立学校の教員であればひとつところの地域をあちこちから見る機会も少ないであろう。また、転勤が全県にわたる高校の教員であっても、特定の地域を本当に知り尽くすのは難しい。しかし義務制の教員であれば、狭い地域の転勤を重ねてその地域を多方面から知り、ついには同化してゆくことが可能だ。義務制の学校を退職された方が、その地域で公民館の役職や郷土史家として活躍されている多くの例もそのことを物語っている。しかもこの地域は、衞さんが生まれ育ち、これからも暮らしてゆく所なのである。だから衞さんは山と海のいずれもを遠くから眺めるだけのものとはしていないのだ。
だがそれだけではない。詩集の冒頭に置かれた『誕生』から、衞さんの対象の捉え方のスケールの大きさを感じた読者も多かったことと思うが、衞さんの地域の捉え方はその地域全体を俯瞰するかのように巨視的なのである。だからこそ衞さんは、山も海も含めた四万十の水系をためらいなく描き切り、自然やそこに住む人の陽の部分も陰の部分も語ることができるのである。このことは地形や職業という環境からくるものではなく、おそらくは衞さんという書き手の資質からくることなのだろう。
したがって「河」や「屋号」において「知ったこっちゃない」と流れる川と、全国に知れ渡る清流の名前にすがって生きようとする土地の人々とを、ともに遠くから公平に見つめておだてることもなければ否定することもなく包み込むように語っているのである。また逆に、両者ともどもを断罪する「憎しみの川」という作品もある。
この川の流れを烈しく憎む
清らかな流れをダムにせき止め
アオザイを栽培させたままの水を
全地球に配送する
海を凌辱し
黒潮の源流にまでも
泥濘の化学物質を送り込んで
愧じる慚じない
ささやかに棲息する
最後の縄文集落までも過疎に追い落とし
オオカミを抹殺し
ニホンカワウソを絶滅させて
豊饒のにぎわいをみせていた大陸棚を焼き焦がし
その白い頭蓋骨を堆み上げて放置してしまった
数々の小さな生命
限りなく大きな生命
(『憎しみの川』前半)
勿論、川の流れをせき止め、化学物質を川に流し込んだのはほかでもない人間である。しかしここではそれを浄化できない川をも、人に牙を剥く力を持っていながらもオオカミやニホンカワウソを守りきれなかった川をも、同じように断罪している。たとえ「清流」として崇め奉られている川であっても、だ。
衞さんのこのように公平で巨視的な目を感じたのは、実は今回が初めてではなかった。九九年に前詩集『くぎをぬいている』が出されているが、そこに掲載された「峠」という作品は忘れがたい。
トンネルの向こうに棲んでいる人たちのことを思っている
トンネルの向こうの人も向こう側からこちらにむかって
トンネルの向こうの人 と呼ぶ
(「峠」冒頭部分)
視点が双方に向いているのだ。片方の言い分だけ聞いたり、特殊なものだけを丁重に扱ったり、自身の意見だけを通そうとする態度からかけ離れたものを感じないではおれない。
だから川に関わる人の人間臭さを、ありのままに捉えて作品に昇華させることができているのだ。
筏が流れない 木炭が来ない
高瀬舟が下らない
川漁師も見当たらない
河原が消え 川岸が消え
アユもノボリコも遡らない
やんちゃな害獣カワウソさえ息絶えた
きらきらと若者たちがやって来た
風に乗って来た
車が来た サーファーが来た
街の息吹を引っ提げて
年寄りたちを起こしに来た
村起こしに 来た
冬でも海の水をかぶり
路上で着替えるグラマーたちを
シルバーカーに顎を乗せて
老人たちが眺めている
遊ぶだけ遊び尽くし 汚すだけ汚した後を
老人たちは待っている
われらがクラブの手当に充てる
空き缶拾いのゴミの日を
(「川べりに」全行)
事実というものは、いつの時代でも滑稽で後ろめたさを併せ持ち、皮肉の匂いがして複雑だ。衞さんはそのことを知り尽くしているので、ゴミが換金されることにささやかな期待をする老人を描く。しかし、滑稽さを借りて読者の胸に染みてくるのは、シルバー人材の活用や地元住民の協力の姿であり、観光客に来てもらうことでの地域の生き残り、さらには地方行政や時代の変化など多岐にわたる。「男はつらいよ」の映画の中で、観客は寅さんを笑いながら、労働問題や貧しさ、人間の信頼関係に思いを馳せ、ユーモアの中のペーソスを感じ取るのと似ているかもしれない。
ところで九九年の前詩集の時には六十六歳、今回の詩集は七十四歳。衞さんが同年代の多くの書き手と大きく異なっているのは、お孫さんや老境そのものにテーマが収束する作品が少ないということだ。一冊の詩集では気づきにくいが、二冊の詩集と年齢とを併せて考えてみると、そのことに気づき、驚かされる。孫を描いても孫の世代へのメッセージとなり、老境を描いても行政の問題へとつながってくる。
衞さんの巨視的な目で捉えた地域もしくは時間の中に、お孫さんや家族のことなども、あるいは御自分の近況や身辺のことなども、わざわざクローズアップしなくともそれらはすでに含まれているのだ、ということに違いない。
飾りも虚勢も嫌う、というよりそんなことにはもともと関心のない衞さんは、淡々と前を見て書き続ける。そんな人が一番怖い。振り返らないから。自分が自分が、という詩を書かないから。
きょうもまた豊かに水は流れる
昨日とまったく同じように
昨日とはまったくちがった岸辺を
(「青海苔のうた(2)」一連)
あしたはきっといいことがある
あしたこそ
あしたこそ と
あしたを夢見て
ゆんべを寝た
(「あした」一連)
だからこそこのような作品の中の希望は、とりつくろっただけの曖昧な希望ではないのだ。
(二〇〇七年十一月二十九日 コールサック社刊)
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