■世代を超えて届く感性
彼とは会ったことはない。電話で何度か話しただけだが、風評によると体驅あくまで細く顔蒼白で、「繊細な感受性」が街をあるいているようだという。噂は当てにならないが、詩集から感受するわたしの葛原りょうのイメージとそれは呼応する。感受性が鋭利すぎて肉体が支えきれない。傷つきやすい心身は過酷な現実の牙に食まれながら詩を生きる糧のようにして自己の居場所を求めて彷徨する。それは角を曲がり間違えた「現代」が喪失してしまった、あの懐かしい文学青年の佇まいを彼に重ねていたのだ。
二○○五年出版の彼の第一詩集『朝のワーク』は心身に霧のようにまつわる抒情性が魅力だったが、その「あとがき」には「僕の中には、登校拒否児、ニンゲン嫌い、ぜんそく持ちの酒喰らい、といった愛すべきものもいる。それら、すべてをもう一度抱きしめるための詩集である」とあった。そのどうしようもない自分をまるごと引き受けて詩作する純朴さも気に入っていたので、選考に携わった詩人クラブ新人賞の選評でとり上げたり、ある詩誌でも論評したりした。
今回の第二詩集『魂の場所』は収録数五十八篇、二○○ページ弱の分厚い詩集だ。「詩が噴き出」ると書く彼は多作なようで、前詩集未収録の作品やそれ以降のもの一五○篇の中から選んだという。読み通してみて、二十九歳であるはずの葛原りょうの、若い世代特有の自己肥大や排他的な観念性が見られない。前詩集と同様に読んでいて抵抗感がない。自己の客観化がすでになされているようなのだ。それは過酷な現実との葛藤や生来の感性の奥行きの深さからくるものだろうか。世代間でのみで通用する昨今の若者の感性と異なり、世代を超えて中高年世代まで届くのだ。異様な事件の頻発するこの時代、世代を超えて届く感性ほど貴重なものはない。いまこのような若い詩人は希少だ。
両詩集に通奏低音のように読み手の心身に触れてくるのは自己の不在感が醸し出す抒情の粒子である。
触れようとして
拒まれ
また触れようとする
掬っても、掬っても、
沈殿してゆく孤独が油膜のように
わたしはいつでも人付き合いに火傷をする
(「触診」より)
他者との交わり方や生き方の貧困さは「不在」の粒子をさらに霧散させる。存在を否定する不在感は浮遊物となって地上をさまようしかない。生きていく意味や価値を否定し勇気を奪うのだ。だから生きる力を少しでも得るために彼は「ぼくはどこにいる?」という問いを問いつづける。彼の詩はそこから立ち上がっていくしかないのだろう。そのとき、詩は有用となる。
「ここにいるよ いまもいるよ」
詩集の中で奇妙に私の心身にとり憑いてくるフレーズに出会った。
虚無なときに
一気に
再生してみるのです
りょうさんいるう?
りょうさんいるう?
りょうさんいるう?
いるよ
ここにいるよ
いまもいるよ
(「メッセージがいっぱいで入りません」より)
「りょうさんいるう?/いるよ/ここにいるよ/いまもいるよ」?どこのアパートの一室にも転がっていそうなフレーズなのに、それはなぜこんなにわたしの心身にとり憑いてきたのだろう。そしてそれはいつの間にか深部で風を吹かせ始めている。私たちはそのような詩的体験をすることがよくある。たとえば宮澤賢治の、中原中也の、立原道造の、谷川俊太郎のフレーズたちのように。このとき、そのフレーズには何ものかが棲みついているのだ。
これが詩の核となる小宇宙なのだと思う。言葉たちは深い奥行きを孕み、むなしく哀しく波紋を広げていく。呼びかけは金属音、向き合うのは電子機器を介して、応えても応えても届くことがない。それでも応え続ける。心身を被うこの不在感は詩集の核となる特質であり、たぶん、このフレーズたちは詩集の存在価値さえ支えている。
この詩集で、気に入ったフレーズをとり出してみよう。
たとえば、過度の利便性や希薄な対人関係などの果て、忍耐力を喪失し「即席」でしか欲望が充たされない状況を「ぼく」は身代わりになって訴える次のフレーズ。
(お湯をください ぼくはインスタントだから
(お湯をください 三分で、すぐに欲望 充たされますから (「餓鬼」より)
「それに陽は、さらさらと/さらさらと射してゐるのでありました」(中原中也「一つのメルヘン」より)?才気と鋭い感性と存在に巣食う何ものかとの葛藤の中で、狂うように逝った中也とどこかでつらなっていくかのような次の二行。
みんなふるふると
光が流れてゆくのでありました
(「月廻り唄」より)
そして、生の過酷さを幾度も超えたとき、風景が何ものかによって捲られてしまったかのように、
もとのままのようでいて
なにもかもが違うから
うすばかげろうが
よく視えるようになった
(「サツキ」より)
何も変わらないようでいて、いつの間にかすべてが変容している。世界の向こう側がふと視えてくるのはそんなときなのだ。
傲慢な時代の雨にぬれて
詩の舞台は挫折の地点の一つであろう高校時代へしばしば照射される。
ケイタイを
大切に両手でおおって
首をスタンドライトのほうへ
あかるいほうへ
少し傾けて
「げんき?」
「なんとかね」
「学校は?」
「行ってない」
すんすんと鼻のすする音と
押し殺した呼吸と
象のような目蓋は
コトバのビンタではれている
(「マナーモード」より)
「コトバのビンタで」象のように腫れた「目蓋」。惨い体験が彼の薄い皮膚をつき入り繊細な細胞たちを殺しながら、やってきたようなフレーズたち。この詩集はそのようなフレーズで支えられている。「ケイタイを/大切に両手でおおって」「あかるいほうへ/少し傾けて」。このフレーズたちの切ないリアリティをどう受け止めればいいのだろう。他者との唯一の接点・ケイタイへの労わりや愛情ともいえるその位置。幽かな電灯の明るささえも全存在を照らす化身のような。この現代という魔物・日常を描かせるもの、それはいったい何なのだろう。
変容する時代や過酷な現実の中で、存在を喪失した青年は「街や時代のどこにもぼくはいない」、その自己をみいだそうとして詩は生まれていくのだろう。けれども、彼は「ぼくは観られている」(「鳥?aの歌」より)という確信を密かにもつ。それがまた彼に詩を書く勇気を与えているのかもしれない。
彼の日常や詩作の舞台は不忍池や上野、日暮里という古きよき(?)時代の残存の漂う下町が多い。それらは彼の心身を優しく包み込もうとするが、そこでも彼はやはり不在でありつづける。
泣くな、世界はこんなに広い
作品の中で、ふと異質な側面を見せるものがある。反戦・平和を訴える社会性のある作品だ。
ノーモア ヒロシマ ノーモア ナガサキ
(中略)
ヒバクシャは足下にもいます
ぼくは その柔らかな
ずたずたの 呼吸のできないケロイドの
皮膚の上で
生活しているのです
(「ノーモア」より)
彼はこの数年、八月六日の広島原爆記念日には広島を訪れ朗読などの活動に参加しているという。そんな側面は意外に作品には反映されていないが、この作品で彼は異質な側面を見せる。被爆者の側に立ち核廃棄へヒューマニストの立場を共有する。そのとき彼はこの地上に浮遊することなくきちんと立っているのだ。被爆を歴史と時間と空間とでとらえ、その場に彼は位置する。弱者を背に自己を押し出す彼を見ていると、何か癒しのようなものに包容される。たぶん、このとき彼は幸福なのだろう。だが、そこでは現在の彼の詩は成立しにくいという複雑な葛藤が存在しているように見える。世界には依然として突出した軍事力を背景に侵略を繰り返す巨悪が存在し、詩人としてそれに抗する責務と意義を見出しながらも、心身を深く被う不在感はひき続き「魂の場所」をめぐる追求に詩を向かわせ続けるかもしれない。そんな困難なディレンマが続くのだろう。だが、その葛藤こそ彼の詩をさらに深めていくに違いない。
彼の若い感性の奥行きは深く、世代を超えて確実に届いていく。そのことは特筆すべき才能だ。私たちの彼への期待は大きく、そこに現代詩の可能性を託してみたい。
Don‘t cry
鴎が ∞ を描いている (「ニンゲンの牙」より)
終わりに詩集の中からわたしの好きな二行をとり出してみた。それを逆手にして葛原りょうに返したい。泣くな、りょう、世界はこんなに広く、きみを見守っている。
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