【開会の挨拶】
芳賀章内 本日は「第一回鳴海英吉研究会」にご参加下さり、ありがとうございます。わたしは『鮫』の芳賀章内と申します。
鳴海さんが参加していた雑誌が主に四つありまして、『炎樹』の佐藤文夫さんのところ、それから『COAL SACK』の鈴木比佐雄さんのところと、それから『光芒』とに属しておりまして、わたしの『鮫』というように、主に四つに多く作品を発表しておりまして、この会はその四つの会で中心になってやろうということで「第一回」ということになりました。
それで、わたしがいちばん年長なものですから、最初の挨拶をしろというご指名を受けたわけであります。それで実は、この会の実際は鈴木比佐雄さんが非常に一生懸命おやりになっていて、こうやって見ておりましたら鈴木さんの出ているところは無いということもありまして、実はわたしはそれでご挨拶だけ、中身の説明は鈴木さんにやってもらうのがいちばんいいかなと思います。
とにかく第一回ということで、「鳴海さんの人気」というものがこの会を第一回というふうに銘打ってやるということになりました。恐らくわたし個人の推測では、鳴海さんはいちばん日本人的な民衆像というものの一つの形を持っていた人ではないかというように実は思っておりました。それが皆さんの心の中にしみわたって、それぞれ人気が次第に深くなっていっているのではないかと思います。鳴海さんの作品の中には上流階級に向かってものを言うという発想なんてほとんど無くて、ほんとに庶民的な、あるいは民衆的なレベルで、同じ目の高さでどんな人にも付き合っているし、作品自体もそういう形でできております。それがいちばん人気の秘密ではないかというように僕は思っています。
今日はその第一回ということなものですから、二つのテーマがあるようにわたしには思えました。一つは「詩的な発想」。いわばこれから出て行くという基本的な場としての『列島』──ここから詩人としての活躍が始まるわけです。それでそこに焦点を当てて長谷川龍生さんに『列島』を通した話をしていただくと。それからもう一つは、自分が生きてきた、鳴海さんが生きてきた背景、そういうものに焦点を当ててみる。彼はなぜ民衆的であるか。彼はどうして庶民的であるか。そういうものがどこにあるのかという、その背景を探るというような感じで、お父さんが活弁士であった、それから浪曲の詞も書いている、そういう庶民のレベル、日本的なレベルをずっと持ってきて、それでなおかつ活弁といういわば日本の語りの、最後であるかどうかわかりませんが、まぁそういう語りの世界を持ったその活弁というのが鳴海さんにはある。そういうことがあって、お父さんが活弁をしておったと。そういうのも今日はご紹介しながら第一回の鳴海英吉の論を展開したいと思います。
このマイクはすぐに鈴木比佐雄さんにお渡ししたいと思うのですが、鈴木さんは、鳴海英吉詩集に「鳴海さんは七つの顔がある」と……何かミステリーみたいな感じですが、そういうことを書いています。そういうことを一つずつやっても七回できるというわけですが。とにかく今日はいちばん大事な基本的な戦前から戦後へ、戦後から二十世紀をギリギリのところまで頑張ったそこのところに焦点を当てさせていただきたいと思います。
それでは、この全体の構成とそれからそれぞれの先生方にお願いしたり、あるいはこれの宣伝や構成に非常に気をお遣いになりました『COAL SACK』の鈴木比佐雄さんにこのマイクをお渡ししまして、わたしのご挨拶に代えさせていただきます。どうもありがとうございます。……(一同拍手)……
鈴木比佐雄 『COAL SACK』の鈴木です。
鳴海さんが亡くなられた時に鳴海さんを後世に残そうというような気運が高まりまして、四つの雑誌が中心になって全詩集を作ろうということで『全詩集』をああいうような形でまとめたのですが、その時に、後世に残すということは、全詩集を出せばそれでおしまいということではなくて、われわれの中で研究会というような機運が持ち上がってきたのです。
今回は、鳴海さんは戦後初め詩誌『列島』に参加したもので、『列島』の方に講演をしていただこうということで『列島』の中心だった浜田知章さんにそのことを相談したら、それは長谷川龍生さんがいいだろうということで、長谷川龍生さんに講演をしてもらうことになりました。
と同時に、わたしの中学時代の先生でギャラリーを開いている方がおられて、そこで活弁を初めて見たんですね。全詩集が出たもう二年近く前なのですが、その時に活弁をして下さった万朶るり子さんに「鳴海英吉さんという方がいて、将来研究会をやる時にぜひ活弁をやって下さい」ということで予約をしておきまして、第一回の研究会にはやってもらおうということでお願いいたしました。
第三部では、この前の出版記念会の時も皆さんにほんとうに感動を呼び起こした武力也さんに、もう一回朗読をしてもらおうということになりました。
あとシンポジウムはですね、鳴海さんはすごく女性にもてるもので、他の実行委員から今回はちょっと女性だけのシンポジウムをやったら面白いんじゃないかということで、そういうような構想を立てまして今日を迎えました。
それから、ちょっと講師の長谷川龍生さんをご紹介したいのですが。わたしは学生時代から詩を読んでいたのですがその時に、あの頃読んでいた現代詩文庫で「パウロウの鶴」だとか「理髪店にて」とか、あと「追う者」ですね、それらを読んで非常に感銘を受けたんですよね。あと、わたしは評論にも関心があったので、思潮社の「現代詩論大系」の中で、あれが五〜六巻あったと思うのですが、その中の第一巻に『移動と転換』という長谷川さんの詩論があり、それを読みまして、それは今でも時々読み返しているのですが非常に新しくて、つまり、外部世界を瞬時のうちに内部にと取り込んでいくという、何ですか静的なもののなかに動的なものを見ていくというかですね、鋭い詩論なんですね、外部と内部を統一していくというか、今でも通用するような方法意識を持って詩を初めに書かれていた。詩作だけではなくて本質的な詩論を持っていた。それがですね、一九五〇年というと二十代前半ですよね。今の二十歳そこそこの若者が書ける文体でも内容でもないんですよね。そういう詩人で、あと浜田さんと一緒に『山河』をやられていたということで。今でも現役で素晴らしい詩を書いているということです。この詩人にどういうふうに鳴海さんを読んでもらえるか、今日はとても関心がありまして、少しドキドキしているのですが。またこれをテープ起こしをしまして、今日来られなかった方にもご紹介したいと思っています。
それでは長谷川さん、お願いします。
【第一部 長谷川龍生氏 講演〈鳴海英吉と『列島』の詩的精神〉】
長谷川龍生でございます。第一回の研究会の講演に相応しいかどうか非常に自分なりに大疑問を持っておりまして、お招きを受けて大変ありがたく思っております。
わたしは今年の六月十九日に七十六歳になりまして、人生百年と計算しますと、その四分の三をやっと超えました。身体はあんまり調子良くないのですけれども……かろうじて……生き抜いております。そういう立場から鳴海さんをわたしなりに振り返り、あるいは勉強していきたいというふうに思っております。
一九六三年十二月十八日に、わたくしは友人の木島始という詩人──先だって亡くなりましたけれども、それとロシア語のできる岩田宏──もうひとつの名前は小笠原豊樹と言いますけれども、その三人でソビエト作家同盟から招待を受けまして、共産党関係の哲学者三名と一緒にナホトカへ一九六三年十二月十九日の朝着きました。……接岸したわけです。「ナホトカ」というのは、日本語に直しますと「めっけもの」ということで、外国の或る船の測量士が日本海をずうっと遡っていきそこに一つの不凍港を見つけたので、「めっけもの」というふうに言ったようですけれど。
わたしがナホトカへ着いた朝わたしの眼にいちばん最初に飛び込んできたのは、ナホトカ港のいろんな公安施設ではなくて、ナホトカの外れにある或る民家の非常に貧しい家屋と、それから冬の朝の物干し……「竿」じゃなくて物干し「綱」に引っかかっている干し物であり、洗濯物でありまして、その洗濯物の色が非常にもう洗濯し洗濯し尽くした青色のシャツだとかその他の物が……どんよりしたナホトカの早朝の風にふらりふらり揺られておりまして、非常に原始的な、非常に日本の数十年前の昔を思い出すような風景でありました。
それで、鳴海英吉さんのナホトカのいろんな詩を読みまして、読んでいるうちにナホトカのいろんなことが次次に思い出されてまいりました。ナホトカで、恐らく収容所でありましょうけれども、そこで亡くなった人の墓地へ画家の赤松俊子さんと一緒に粛々と行ったことを思い出します。その日本の兵隊さんのそこで亡くなったおびただしい墓地を管理している年寄りのロシア人のおじいさんが居まして、それがきれいにその墓地を清掃しておりました。……そのおじいさんへ赤松俊子さんは一枚のスカーフを差し上げていたのを、今思い出します。
それからずうっと、翌年の一九六四年二月二十二日にソビエト……シベリヤ鉄道に乗って、ハバロフスクから今度はレニングラードへ行って、レニングラードからモスクワ、モスクワから白ロシア、ウクライナへ行ったり、それからチェコスロバキアへ行ったりして、約一カ月半か二カ月くらいかかってもう一度ナホトカへ帰ってまいりました。行きしなの船の旅は良かったのですけれども、帰りはナホトカで材木船の出航するのを待って、その材木船に乗って今度は東京湾の川崎まで帰ってまいりました。その時もナホトカの街を歩いたりして街の様相を眺めました。北朝鮮系の通訳の人達と話したりして、そういうことも思い出します。 |