詩 の 原 故 郷 を 求 め て
特集:『鳴海英吉全詩集』刊行を祝う会
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◎第三部
シンポジウム「鳴海英吉の詩をどう読むか」
コーディネーター:鈴木比佐雄
パネリスト:浜田知章・本多寿・遠山信男・石村柳三・岸本マチ子
鈴木比佐雄 これからシンポジウムを始めさせていただきます。司会をします編集委員の一人の鈴木比佐雄と申します。いちおう編集の経緯を含めて私が鳴海さんについて少し話させていただきます。私は年譜とか解説も書きましたしいろいろ雑誌にも発表しているので、私の話よりも今日のシンポジウムの方々にいろいろ語っていただきたいと思っていますので、よろしくお願いします。本格的なシンポジウムということよりも、鳴海さんというのはすごく多面的な詩人だったもので、いろいろな角度から論じてもらえる詩人なので、一つの方向性に持っていくのではなく、鳴海さんの詩と人物の両方の魅力を語っていただくようなシンポジウムにしたいと思っております。
私が鳴海さんと知り合ったのは、一九八七年の春か夏あたりだったと思うのですが、私は『詩的現代』という雑誌をやっていまして、それを終刊した時に鳴海さんからハガキが来たのです。それから私信のやり取りをして、そして「光芒」の集まりに来ないかということで、初めて会ったわけです。自分がこれから個人誌「COAL SACK」というのを始めるということでいろんな話をしました。その後も私信のやり取りとかいろいろ見ていまして、この詩人は私のことをとてもよく見てくれているような気がして、創刊号の寄稿者の一人になってもらいました。それから亡くなる二〇〇〇年の初めの頃まで、三十七号くらいまでずっと欠かさずに寄稿を続けてくれました。私も八七年以降よく遊びに行きまして、昼ぐらいから押しかけて行って、早く帰ろうと思うのですがいつも最終電車になってしまうくらい何だか詩の話が尽きなくて、ずっとそういうようなお付き合いをさせていただいたのです。
私がなぜ鳴海さんに関心を持ったかというと、隣におられる浜田さんも戦後間もない頃の「列島」の同人なのですが、私は「列島」の詩人に関心を持っていたのです。「詩的現代」というのも、黒田喜夫という方が参加していたもので「列島」の詩人だったのです。黒田喜夫と鳴海さんは、「列島」四号の新人特集で一緒に紹介されています。そういうことで「列島」の詩人、その頃は本名の加川治良という名前で書いておりました。私は戦後詩の歴史に関心があって、自分でも批評文を書こうと思い、「荒地」を含めていろいろ「列島」のことなども調べていたのですが、鳴海さんには「列島」の詩人ということが先ず念頭にありました。それと同時に、最後の方の「荒地」にも関わったシベリヤ帰りの石原吉郎という詩人も、私は好きだったのです。石原吉郎のことを調べていくうちに、内村剛介さんが石原吉郎と鳴海さんを比較した評論を書いていたもので、それを読んで心に残っていたのです。いつか機会があれば鳴海さんの詩を読みたいと思っていた。その詩人と一九八七年に知り合って、意気投合しました。その後、私の創刊した「COAL SACK」の中心的な役割をずっと果たしてくれていました。浜田さんにも「COAL SACK」を送って、その宣伝をしてくれたということで、「COAL SACK」を創り上げていくために、私とは同志のような関係だったのです。
それっと同時に、私は鳴海さんから多くのことを教えられました。それはなぜかというと、「反復」というか一つのテーマを熟成させて何度も何度も書いていく姿勢とか、それからすごく志が高かったのです。自分の詩以外に、「今、現役の詩人で誰が優れた詩を書いている」とか「誰がこういう詩論を書いて詩壇を引っぱっている」とか、詩壇というものがあるかどうか分かりませんが、詩壇全体というか、詩を志す人間の中で一番頑張っている人間のことに対して目配りをしているというか、そういうような志の高さを持っていたと思うのです。それは戦後間もない頃、「荒地」とか「列島」を生み出す起爆剤的な役割をした福田律郎という詩人がいましたが、その詩人から多くを学んだのではないかと思うのです。そういうこともあって、私は鳴海さんを見ていて、私の父と同じ年なのですが、私の父の世代の最良の人物だと確信しまして、そういうことでずっとお付き合いさせてもらって、幸せな時間を過ごさせてもらったということなのです。九四〜九五年頃に、私はもう鳴海さんの価値が分かって「鳴海論を書きたい」と言ったところ、「俺のことはどうでもいい」と言われましてね、じゃあ、もう死んだ時しか無理なんだな…というような想いがあったのです。でも、こんなに早く亡くなるとは思いませんでした。倒れた時もちょっと言葉が不自由になって、ほんとうに聞きたいことがたくさんあったけど、聞けなかったということもあって…。倒れてからはじめて会ったのが二〇〇〇年の五月七日なのですが、電話にももう出られなくなって、ちょっと押しかけて行きました。解説にも少し書きましたが「俺が万一の時は頼む」ということとか、あとは鳴海さんの潔さというのでしょうか、「これを全部お前にやる」と言ってくださって、もう棄てるという感じですね。鳴海さんの好きな一遍の「捨離」というか、それを生で聞いたような気がします。でも、「これを頼む」というのは、私は「全詩集を作ること」だというふうに理解したのです。あと、「他の詩人には知らせなくていい」ということまで言ったのです。でもひと月経って私は、もうそういうわけにはいかないと思い、いちおう仲の良い詩人に伝えたのです。そういうこともあって、多少使命感がありまして、何とか三年後の今日こういうような会を持てたということは、鳴海さんがこういう時間を作ってくれたのだと思って、ありがたいと感謝しております。皆さまにもほんとうに感謝しております。
私の話はこんなところで、あとはほかの方に語っていただこうと思います。先ず初めに浜田知章さんです。浜田さんは「列島」時代の昔からの仲間で、鳴海さんが浜田さんを紹介してくれたというのは、多分私と浜田さんが近いところがあると考えたんじゃないかと思いますと思います。それはどういうことかというと、私と同じように個人誌「山河」というのを戦後間もない頃にやられた。それは大阪では一大星雲となった雑誌です。あと、岡本彌太という高知の詩人を、生涯の師として今でも論じ続けているということもありまして、そういう自分と詩人との根源的な出会いの関係を大切にされてきた方です。
浜田知章 『全詩集』が最初に出た時に、私は見たのですよ。その時、加川治良のお父さんが活動の弁士だったということに私はびっくりしたのです。皆さんは若いから、活動なんか見たことないでしょう。いわゆる無声映画です。トーキーになってからは皆さんご存じでしょう。ところが僕らは、九歳か十歳の頃から無声映画を見ることに日夜明け暮れて、学校の勉強なんかどうでもいいのですよ。その無声映画が、我々に夢とフィクション(虚構)と、それから「人生とは何か」という現実認識の仕方を教えてくれたのです。だから我々の少年時代は、無声映画によって文学界、映画に対する眼が開けていきました。昔は『何が彼女をそうさせたか』とか藤森成吉の原作を学校に巡覧していたのです。それを小学校へ見に行ったことがある。そしてショックを受けた。そこから文学への道が開けた。そういう鳴海君のお父さんが活動弁士という…。私も大阪へ出てから、大阪の東区に日の出通りという通りがありました。そこに映画館が五、六軒ありました。私も活動弁士のファンでしてね、玉造座という所の弁士は戸田桂州というちょっと美声で、何とも言えない詩とか、僕は毎日聞き惚れてました。つまり浪花節語りではなくて、その美声といったら「活動弁士はかなわンな」というふうな気持ちを受けました。「かなわンわぁ」というのは、もうほんとうに大阪弁の特徴的なことばですが、「かなわン!」というような気持ちだった。だから僕も、第一次は活動写真時代。それから文学に開眼するのは、そういうところから十七、十八歳の頃萩原朔太郎にふれたり、ポール・ヴァレリーにふれたり、そしてだんだん文学の世界が広がっていく。その喜びといったら、人生の歓びを感じました。だからその映画から文学へ移る時のその培養が、私の青春時代だった。だけどそれから戦争が続いて、今も馬鹿なことをしていますが、その時に我々の友達が全部死んでいった。それが私は生き残った。生き残ったということは、単に僥倖とかそういうことではなしに、ある運命的なものを感じましたね。ですからそれは、現代詩なら現代詩をやって、現代詩というフィクションかどうか、人間の真実というのは何であるかということを毎晩問うてくるのですよ。…活動弁士のことばかり話すようになってごめんなさい。これでやめます。(拍手)
鈴木比佐雄 鳴海さんも戦前フランス映画が好きで、フランス映画の題名にちなんだ詩集も作ったようですが、戦争中に焼けてしまったということもあります。そういう意味では、鳴海さんの世代にとってフランス映画の影響というのはものすごかったということだと思います。また鳴海さんのひとつの特徴として、お父さんが「活弁」であったということもあって、その「語り」というのが江戸時代から通じるような、何かそういうようなところもあるし、あとは映画青年であっとこととか、または自分で脚本を書いたりということもあった熱烈な映画青年だった。鳴海さんは「列島」の時代には労働者詩人と見られていたのですが、初めの原点はそういうフランス映画とかフランス文学とか、そういうところを相当ふんだんに身に着けていた、また江戸時代から受け継いだ語りの文化も身に着けていた。そういうところが鳴海さんの下地になったのではないかと思います。
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