【第三部 シンポジウム】
-鳴海英吉の詩作における女性像-
コーディネーター/大掛史子
パネラー/鈴木文子、山本聖子
大掛史子 今日は鈴木文子さんが大変貴重な鳴海さん関係の資料をたくさんご用意くださいまして、とても良いシンポジウムになる予定だったのですが、時間がなく、今回はちょっとこの資料のご紹介をしていただいて、これをもとに次回は鈴木さんにもスピーチでそれをふくらませていただくということにいたします。とっても貴重な資料ですので、先にどういうものをお揃えいただいて、どういうお話をほんとうはしたかったかというようなことを、ちょっと鈴木さんから皆さんにご紹介いただきたいと思います。
鈴木文子 そうですか。はい。
今回「鳴海英吉の詩作における女性像」という大変素晴らしいテーマでシンポジウムということでいただいたわけですけれども。私も前回の研究会でお話ししましたように、けっこう鳴海さんとは古いお付き合いで、私を「ふみこぉー!」というような呼び方で呼ばれていた??今考えてみると、今日もいろいろお話を伺ったりしていると、「えーっ、私、すごい人とお付き合いしていたんだな!」という感じで、びっくりしています。
それで、「女性像」ということではあまり今まで考えてもみませんでしたが、こういうテーマをいただいて思ったのは、やはりいちばん鳴海さんの根底にあるのは、先ほど遠山さんもおっしゃっていましたけれども、この「ふさ子さん」という十八歳で横浜空襲で焼かれてしまった婚約者が詩のエネルギーにもなっているし、結局鳴海さんの女性像の中にずうっと生きていたというふうに私は思います。これはどなたもお感じになることでしょうけれども。
今回いろいろ考えてみましたら、時間が無いのでそれは省くといたしまして、鳴海さんは一九四四年、昭和十九年の二十一歳の時に戦争に行きます。それで「帰って来たら結婚したい」という手紙を書いたり、お父さんと、「お宅の娘さんをもらいに行きたい」と言ったりしてふさ子さんのお宅に伺ったりして、それでハンカチだけもらってふさ子さんは別れるわけですけれども。そして鳴海さんが戦地で、結局シベリヤに抑留されてサカロフスカ国立農場でペンキ塗りとか、それから道路工事とか、農業とかいろいろ、レンガ作りとかいろんな雑役をやらされていた頃、ふさ子さんは横浜空襲で十八歳で焼け死んでしまうわけですね。
それで、鳴海さんが帰国するのは八月十五日。これもほんとうに何か奇遇だなあと思うんですけれども、家族に戦友たちの安否を伝えるために水筒の中に戦友たち二百名の名簿の用紙を入れて帰ってくるわけですね。そして帰国した時に、ふさ子さんが焼け死んだということを聞いて、それでもすぐに彼は詩は書いてないんですね。いちばん詩を書くきっかけをつくったというのは、十五歳の頃からずっと詩は書いていましたが、帰国して詩をつくり始めたというのが、やはり二十八歳の時に福田律郎という詩人と出会った、それで生活詩集を出していた、それの編集に加わった、というのが私は詩を書くいちばんのきっかけになっていったのではないかと思います。それから、二十九歳で「列島」が創刊されると、その「列島」の会員にもなっておりますので。そういうことで詩を書くきっかけができていったのかなあというふうに、もともと素質があった人なので、思っています。
そして三十一歳の時に、初めて「列島」の九号に「焼き殺された娘」、のちに「焼き殺された ふさ子」という題名で、初めて婚約者が焼き殺された作品ができております。これはもう皆さん『全詩集』の最初に出ている序詞をお読みになっている方も多いと思うんですけど。
そしてこの時に書いた作品がもとになって、それは時間がないのでちょっと飛ばすことにして、三十五歳で現在の奥様の伊藤すゑさんと結婚されています。三十六歳で長男が生まれて、三十八歳で次男が誕生されているわけですが、その三十八歳の時に、結局詩作を中断します。というのは、先ほどから皆さんおっしゃっていますように、不受不施派の研究に入ってくわけなんですけれども。やはりこの不受不施派というのは、いま私は「貴重な資料」と言われましたけどこの貴重な資料というのがその、鳴海さんからこういうの(資料を示しながら)を私はたくさんいただいて「ほれ、文子これ読めー!」とか言われたんですけど、この頃は「何だこんなの、何だか読みたくないな」と思って(笑)、こういう「異端」というものなんです。それで鳴海さんは、この中に加川治良という名前で「房総の不受不施派の周辺」という、千葉県の多古町のこととかいろいろ書いてありまして、鳴海さんが「ここ読めよ」とこうやって付箋をして、こんな親切にしてくれているんですけど、私はあんまりこういうのに興味がなかったので読まなかったんですけれども。でも不受不施派のこれをずっと、会報とかも鳴海さんは送ってくれていまして、これは昭和四十五年の一月一日の会報とか、それからこういう「立正御法会報」とか、こういう日蓮上人の三百回忌のとか、こういうのをいただいて、まだたくさんあったような気がしたんですが、私は引っ越しましたのでちょっとどこに行ってしまったかよく分からないんですけれども。それから、こういう不受不施派のこの分裂のものを書いたものも、これは抜粋してこういうふうにしたものを送ってきてくれて、それで「ここ読めよ」というふうなことで。これには、読むように書いてあるのは、これは千葉県の多古町のことが書かれた所を読みなさいと。自分の地元なんだよということで読みなさいということで、何か鉛筆で斜線まで引いてあるんですけど。ああこんなのあったんだなあと思っています。
それで、これを三十八歳から四十八歳までびっしり十年間不受不施派。でも、鳴海さんの「葬送文・草案」(『全詩集』の「詩論・エッセイ」)というエッセイを読んでみますと、「詩は視界から消えてなくなりました。凝り性です。」「他はどうでもいい!」「詩を十五年忘れていた」というふうに書いていますので、十五年なのかも知れません。年譜を見ると十年くらいなのかなと思ったのですが、そういうふうに書いているので、やはり十五年くらいはこの不受不施派にびっしり立正大学の先ほどのお話にもありました宮崎博士の門下生になって研究をされているわけです。
それで詩を書き始めるのは一九七二年の四十九歳になってから、「詩人会議」の先ほど最初に講演されました佐藤文夫さんの勧めで詩作を始めて、それからどんどん詩を書いていくわけです。五十歳の時に初めて「焼き殺された娘」という作品を発表されています。それは「詩人会議」の六月号です。それから五十一歳で「五月に死んだ ふさ子のために」という作品を書いております。この頃からもうずっとナホトカにかかわった作品も書かれておりまして、ふさ子さんへの想いと一緒にナホトカを書いてきています。そして五十四歳の時に、『ナホトカ集結地にて』が詩集に、三十五篇だけの詩集になるわけなのですが、「死んだふさ子のためのメーデー」という作品が書かれております。それで、次の年の五十五歳で『ナホトカ集結地にて』が七八年度の壺井繁治賞を受けられています。それからはもうずっとナホトカを書き続けるわけで、結局ナホトカを書くということは、不受不施派の研究者のひとりとしてずっと戦争とふさ子に対する愛というかそういう想い、焼き殺されてしまったその想いを書いていくわけです。
五十七歳の時に、「詩と思想」の九月号で片岡文雄さんが「ナホトカ」の批評文を書かれておりまして、「南無」というのは「たのむ」という意味であって、そしてよく詩集の中に「南無阿弥陀仏」とたくさん出てきますが、「阿弥陀仏」は「たのむ」を、「たすける」「たすけてくれ」という意味なのだということをお書きになっていますけれども、ああなるほど詩人らしい受け取り方だなあと思っていましたら、不受不施派のあれはちょっと違うんですね。《「南無」というのはインドのことばで、いのちをかけて一心に信心する》ということだというふうに、不受不施派の案内を見るとここに出ているんです。これで詩人と宗教の違いというのが、ああなるほどというふうに分かったわけなんですけれども。
それから、時間がないので戻りますが、一九八一年五十八歳の時に「横浜・六月は雨」というのを書いております。いつもですと「ふさ子」という固有名詞が出てくるのですが、ここではもう「ふさ子」ではなく「娘」という表現をしているんですね。やはりこれは、娘として距離を置いてその婚約者を見られるようになったのではないかと、私は思いました。
そして、一九八五年の六十二歳の時に、『全詩集』のなかの最初の「接岸」という詩、これは鳴海さんが六十二歳の時に書かれたんです。この「接岸」が一番最後です。婚約者が焼き殺されてから三十年、その三十年という年月をもうずっとふさ子さんのことを思い続けて、そしていろんなものを書いてきているわけですね。戦争を書き、念仏を書き、ナホトカを書いて、戦友を書いて??というふうに書いてきているわけです。それで三十年経ってこの「接岸」を書いた時に、ようやく「鳴海英吉」という自分の中の岸辺に辿りついたのではないかと私は思いました。
それはどうしてかと言いますと、鳴海さんって昔からすごい区切り、区切りというのを大切にする人なんです。ここに紹介してきましたように、だいたい「六月は雨」というのは八月の終戦の日に発表したり、それからふさ子さんのことはだいたい五月か六月に発表しているわけです。そういう拘りのある人なので、結局「接岸」を書いて一つの区切りにしたというのは、次の六十三歳で『舞鶴から』という詩集を出しますけれども、この詩集の中に「接岸」と「五月に死んだ ふさ子のために」と「横浜・六月は雨」というのを載せているんです。やはりこれが一区切りであるのかなあ、まあずっとそれから思い続けはしますが、一区切りとしてふさ子さんを書いたんだなあと思っています。
それから六十四歳で、また彼はすごい私家版の詩集を出すのですが、『広島・碑文』という詩集を出されております。このあたりからだいたい心の旅というかそういう旅をするようになって、今まで知り合ってきた女性やら、それから広島の事やら、原爆などいろいろ書いていくわけですけれども、それが祈りの境地になっていくものが次の六十五歳で私家版で出される『女友達』というところに集まってきています。ここにはやはり、不受不施派の念仏やら、いろんなものを旅しながら人情に触れたり、シベリヤに触れたり、亡くなった戦友に触れたりしながら書いていくわけです。
六十七歳で『銃の来歴』というのが発行されます。これは私家版で一月に出しておりまして、それで九月にはちゃんとした詩集として『銃の来歴』が出されております。
そしていちばん、先ほどどなたかもたくさん読まれておりましたが、鳴海さんの詩集の中で『念仏』という詩集がありますけれども、この『念仏』の中に、彼が今までずっと抱いてきたいろんなものが??戦友の死とか、それから農民たちの詩とか、それから焼かれたふさ子さんの死とか??そういうものを念仏として唱えながら作品化していくということではないかと思いました。
それで、いちばん集大成として私が感じるのは『女達の来歴?RAAの女達』ということで、そこに集結されていくのだと私はこの女性像のことだけで言えば思ったわけです。私家版で『女達の来歴?RAAの女達』というのは十部限定で出たわけですが、十部限定で出されて、私は忘れられて(笑)、送っていただかなかったんです。そして「読んでくれたかぁ?」っていって電話が掛かってきて、「え、なぁに? わたし、知らない」って言ったら、申し訳ないといってこれ一冊、十一部目のこの『女達の来歴?RAAの女達』を一冊作って送ってくれました。
ここに手紙が添えてあります。ここをちょっと読んでみますと《鈴木さんに届けられないとは大変なミスで、つくってみました。ごめん、すいません、申し訳ありませんでした》って(笑)書いてあるんですけど。これ、私はいちばん貴重で、そして鳴海さんの今まで書いてきた女性像の侵略戦争に対する怒りも、それから何か戦友たちへの想いも、ふさ子さんへの想いも、全部このRAAの女性達の中にこめられて書かれているなあと私は思いました。「RAA(1)」の最初のところに、これは私たちがやっている佐藤さんが代表をしている「炎樹」に発表されたものですが、これを私の家で新年会か何かやった時に鳴海さんが朗読してくれました。この朗読がすごく私は耳についておりまして、先ほど皆さんからの朗読をお聴きしていると、そうすると鳴海さんの声が自然と体温のように伝わってくるのが感じられました。ほんとうでしたら「こんな朗読しましたよ」というのをお知らせしたいわけなんですけれども。こういうことでこれから、私は今ちょっと絵馬に興味があって女性のことを調べたりしておりますので、この鳴海さんの女性像も含めてちょっと何か調べてみたいなと今思っているところです。あとはお二人に話していただきたいと思います。
大掛史子 ほんとうにありがとうございました。もうこれだけで十分という気がいたしますけれど。実は、今年のこの会を立ち上げる時に、今年は宗左近さんの追悼の会でもあるから、「炎える母から燃えるふさ子へ」というテーマもどうかなというような意見も出まして、それもちょっと考えられたんですね。でもそれは結局立ち消えになったんですけれども、今日の鈴木さんのお話を伺っていますと、何かそのテーマでまたもう一回鈴木さんに来年でも再来年でもお話しいただきたいなと思いました。
それで、もう時間もだいぶ無くなってきましたので、山本さんも何かお調べいただいていらっしゃるみたいですので、関連したことでもよろしいし、また全く別のことでも何でもけっこうですので、ひとことお願いいたします。
山本聖子 もうあと五分しかありませんので、(笑)かいつまんでいたします。
いま鈴木さんのお話を伺って、やっと私は時系列を理解したという、そういう立場におります。実は、『全詩集』で初めて鳴海さんにお目に掛かったものですから、私の鳴海さんの印象もやはり「ふさ子」から始まった世界でした。実際、いま伺ったことでやっと分かってきたのですが、やはり「ふさ子」というキーワードがあって││キーワードではないですね、ことばだけではなくて、存在があって始まった世界であるということは、ほんとうに受け取ったまま、ほんとうにその通りだったなあということがあるのですが。今回「女性をめぐって」ということで、もう一度「女性」というキーワードで私は読み返してみた時に、「ふさ子」という存在が、鳴海さんが書いている全ての女性像のシンメトリーとして対照的な位置に必ずあるなあという感覚がありました。ちょうど『全詩集』の編集がありましたけれども、最初にある「接岸」という作品ですが、その中に、日本の山なみを鳴海さんがまず見られた時に「女の塑像の形」というふうに表わされていたんですね。山を女性に喩えるというのは決して珍しいことではないのですが、彼がやはり生きた女性ではなくて「塑像の形」として捉えていることに、まず私はハッとしたんです。鳴海さんの描かれた、たくさん女性が出てきますが、そういったものの中にやはり生身の女性、先ほどどなたかいろいろご指摘がありましたが、血肉としてとか、自分の、たとえば憑依して乗り移って語るというような、いろんな語りかけがあるのですが、やはり女性が「像」として、あと「形」として描かれるというその特徴は、これはちょっとおさえておくべき事だろうと思ったんですね。彼が向き合っていたのはやはり「ふさ子さん」という存在であって、その他書かれる、たとえばロシヤの逞しい母たちとか、特殊な環境に置かれた日本の女性たちとか、様々書かれますけれども、全てふさ子さんとの対比において描かれる、という特徴がまずあると思いました。
それで、うんとそのように境涯の離れた方たち、たとえば生きられなかった彼女のその後にあるような延長線上にあるような女性たちとか、純粋なまま、乙女のままに逝ったふさ子さんとの対比にあるような人たちだけでなく、たとえば「もしかして彼女が生き長らえて自分を迎えたとしたら」というような同じような境遇に置き換えられる人たちでさえ、やはり声とかことばを持った女性というよりは、やはりふさ子の代弁者としてそこに置かれているのではないかというようなことが印象的でした。
その中からやはり、先ほど水崎さんがおっしゃったように、それは銃後にいた女性とか、それから過去の戦争の場においた女性ということだけではなくて、男たちの戦争の中で問いかけ自体が意味のないことであるその場において、その女性たちが女性に向けて問いかけをしているという場面が多くあるんですね。兵士であるたとえば鳴海さんなり他の人たちではなくて、日本の女性、日本の母へというような問いかけ、そういうものがとても重要ではないかと思ったのです。というのは、「あの戦争はそうだったけれど、いま行われている戦争はどうだ」というふうに、鳴海さんがこれは私たちにその形を借りて問いかけているのではないか││そういう印象がありました。そこまでを引き受けて読まなければならないのが、あとから手にした私のような立場の者だろうと考えています。
今回はほんとうに、「女性」という観点を与えられてもう一度『全詩集』を読むことができたので、とても私にとっても刺激的でありましたし、ほんとうはたくさんもう少しお話しすべきことがあるのですが、最初の会の時にお尋ねした時に安易に「論を書きます」と口走って、未だに宿題をやってないので、また今日ここに呼ばれてしまったなあということがあるので(笑)、ちょっといつかこれをしっかり形にしてまとめたいと思います。今回はこれで終わります。
大掛史子 ありがとうございました。山本さんはたいへん筆力のある方でいらっしゃいますので、その鳴海論、ふさ子の論をぜひまとめていただきたいと思います。山本さんにもいずれ今日のようなお話をもとにしたスピーチをお願いしたいと考えています。
やはり鳴海さんのこの詩集の最初にふさ子の詩を五篇持ってきたという編集方針が間違っていなかったというのは、今日のお話などを伺いましても感じます。全然詩を読んだり書いたりしない人が、まず鳴海さんの詩集の最初のふさ子のところを読んで涙を流して感動するわけです。しかもそれは、若い人に多いんですね。それで全く知らなかった鳴海さんの詩のファンになるという人が多いものですから、この編集方針は間違っていなかったというふうに自負しておりますけれども。今日はほんとうに時間がなくて残念ですが、お二人に核心をついたお話をしていただきまして、ありがとうございました。今日はこれで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(一同拍手)
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