「朝鮮通信使」の文化活動に協力して頂けませんか。そう語りかけてきて名刺を交換したのは、朝鮮通信使文化事業会の金慶華局長だった。二〇〇五年二月四日、釜山学生教育文化会館で開かれた李秀賢さんの四周忌に招待され、私は新たにその日のために書いた追悼詩「黒ダイヤを燃やす原故郷の人」を朗読した。韓国語でも翻訳者の保坂祐二さんが朗読してくれた。その会が終わり、李秀賢さんの父の李盛大さんに挨拶をし、母の辛潤賛さんとは詩の話などをした後だったと思う。金局長のこの一言がなければ、私は再び九月七日の「韓日ジャズ公演」のために日本のジャズバンドを連れて、こんなに早く釜山の地を踏むことはなかったろう。
李秀賢さんの追悼詩を釜山で読んで下さいませんか。そのように友人で世宗大学政治学博士の保坂祐二さんから年の初めに話があった時、私の中で李秀賢さんの魂から呼ばれている気がした。保坂さんは李秀賢さんの在籍していた高麗大学の先輩であり、私の詩の良き理解者だった。二〇〇一年一月二十六日の新大久保駅で、線路に落ちた日本人の酔っ払いを助けるために李秀賢さんが命を落とした。その報道を聞いて私は李秀賢さんの精神には、韓国と日本の根底に国境を越えた共有すべき「原故郷」があり、それを見出し、創り出そうとする可能性を秘めていたことを感じた。彼の命の切断に胸の奥が悲しみで痛んだ。私は彼の追悼詩「春の天空」を習いたての韓国語と日本語の両方で書いた。私は学生時代に哲学を専攻した。二十世紀の哲学を切り拓いた現象学の創始者であるフッサールが晩年に「ヨーロッパ」を「原故郷」と考えて、ナショナリズムを超える根源的な拠り所を模索したことを学んだ。当時ナチスが権力を持ち出した時に、故郷と異郷の根底に「原故郷」を見出そうとしていたフッサールの精神の在り方は、対立するものの底に共通の基盤を見出そうとする現象学の根源的な志向性だった。私は学生時代から詩と詩論に関心を持ち三十年も書き続けているが、自分が詩作する際にこの「原故郷」というまだ見ぬ世界だが、我々の根底に確かに存在する場所を探し続けているのだ。
どうしたら李秀賢さんの精神を生かすことができるだろうか。彼の高貴な精神が韓日の二十一世紀の扉を押し広げたのではないか。二十世紀の日本の代表的な詩人宮沢賢治は、一九二六年に『農民芸術概論』で「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と記していた。それから八十年後に李秀賢さんの実践した精神を韓日の深い基礎に据えなければ、これからもきっと訪れる韓日の困難な情況を乗り越えていけないだろうと痛感したのだ。
鈴木さん、日本のジャズバンドをご紹介下さいませんか。春になったころ日本語の堪能な「朝鮮通信使」の李笑美さんを通して正式な依頼があった。仕事中の私にすまなそうに電話をしてくる金さんの心づかいに私はとても好感を抱いた。ちょうど独島(竹島)問題が大騒ぎになりかけてきた頃だった。私は金局長と李さんたちと一緒にこの困難な情況を必ず乗り越えていこうと考えていた。
田中さん、釜山に本物のジャズを聴かせに行きませんか。こう私は日本でも有数なクラリネット奏者である友人の田中正敏さんに提案した。田中さんは二つの大学でクラリネットを教えながら、クラシックからジャズまで幅広くコンサート活動に挑戦し続けている。田中さんは韓日友好の意義を深く理解してくれ、現役のジャズ奏者の中からサックスの右近茂さんを指名して彼に人選を任せた。金局長も二度来日をして、私や田中さんと打ち合わせをし、正式な契約書も取り交わしたのだった。田中さんから依頼されバンド名は私が東京ファイブ・ブリッジと付けさせてもらった。その下準備に李笑美さんと数え切れないほどメールや電話で打ち合わせをしたことは、よき思い出になった。李笑美さんの謙虚で誠実な声を電話で聞く度に、私は真に韓日の友好を願って働く韓国の若者の美しい心を感じた。李秀賢さんが生きていたら、きっと李笑美さんのように韓日の架け橋になって活躍していただろうと思うと、ご両親の悲しみの深さを思いやった。
釜山はあまりに遠く、険しいですね。と語り冷静な田中さんも心配顔だった。右近さんを始めピアノの八木隆幸さん、ベースの酒井一郎さん、ヴォーカルの福田良子さんらも機体の衝撃的な揺れに不安そうだった。九月六日は台風十四号が九州に上陸している情況で、飛行機は金海国際空港に車輪を降ろしたが横風で浮き上がり、成田空港にまた引き返すというハプニングがあった。そのため公演当日の七日朝の飛行機で再び釜山に向かったのだった。幸いにも昼からのリハーサルには何とか間に合って良かった。命がけの釜山行き飛行機に乗った共通体験で、私たちには言葉では表されない団結心がわき上がってきた。田中さん以外の演奏を初めて私は聴いたのだが、彼らは本当のプロだと感じた。特に右近さんのサックスの音は何と色っぽいんだと驚いた。また八木さんは天才じゃないかと思うほど華麗なテクニックだった。また酒井さんの安定したベースの響き、そしてオペラ歌手とも思える声量と雰囲気を漂わせる福田さんだった。
東京ファイブ・ブリッジを連れてきてくれてありがとう。そういう言葉を何度も聞き誇らしかった。田中さんや右近さんの二人のクラリネットが内面に語りかけてくるスタンダードジャズの魅力は、ジャズの素晴らしさと奥深さを伝えたと思う。また「上を向いて歩こう」や「さくら さくら」という日本を代表する曲も、独創的なものに感じられた。福田さんの声量が国境を越えて釜山の人々の魂を揺さぶったと感じた。右近さんと福田さんからは韓国語の簡単な挨拶文をホテルから会場に行く間に頼まれ書いたが、その言葉が二人から読まれたときに、会場の拍手がより多くなったことはとても嬉しかった。
鈴木さんに、ビールをついであげてくれ。となりのテーブルから金局長の大きな声が聞こえた。金局長の感謝の気持ちが本当に伝わってきて胸に染みた。公演の後に打ち上げの慰労会をジャズクラブで開いてくれたのだが、右近さんたちはお礼にと言って一時間以上も演奏をし続けたのだ。途中で韓国の若いジャズ奏者もステージに上げ、一緒に演奏する姿は見て、これこそが韓日友好の本来的な姿だと思った。執行委員長の姜南周さんからも感謝の言葉を頂いた。姜さんは詩人で文学博士でもあるという。私の好きな韓国の詩人申東曄や江戸時代朝鮮友好の第一人者雨森芳州などの話などを今度はゆっくりお聞きしたいと思った。私にとって韓日友好とは出逢った一人一人の韓国人の心や精神を受けとめることからだと思っている。朝鮮通信使文化事業会の精神と私の探している原故郷とが重なり深まっていくことを心から願っている。私は帰国後に釜山の詩を十篇ほど書いた。その中の一篇を引用し、この小文を終えたい。
民主公園のハルミッコッ
夜明けの釜山港は 銀色皿の水
さざ波で 海面がちぢみ出し
黒から灰色にうつろう無数の諧調へと
天上の誰かが 銀色の筆を点描している
コモドホテルの窓から
朝の一番船が行き来するのを眺めていると
五六島の手前の海面に
天上から金色の光が注がれる
(略)
(「朝鮮通信使ジャーナル」十一号二〇〇五年十二月に掲載されたものの
原文でから多少長くなっている) |