ここでの「俺」は、もはや一人の個人的な経験を語る「俺」ではない。戦争を経験し死んでいった多くの「俺」たちなのである。生涯で詩など無縁だったかもしれない多くの無名戦士たちの声が木霊している。
戦争詩に現れる特徴は、それ以外の作品にも現れる。浜田知章の眼差しは、やはり名もない民衆に向けられ、詩は死者に語りかけ、死者がわれわれに語りかけてくる。それでは、なぜ詩人はそのように歌わねばならないのか。それはそこに「正当性なき死」が存在するからである。浜田知章のリアリズムが一貫して対峙してきた「敵」とは何か。それは「正当性なき死」なのではないか。「正当性なき死」を生む世界の在りようなのではないか。このように詩人の詩業を捉え返すとき、そのリアリズムの詩法がアクチャルであることに誰しも気づくだろう。なぜなら、「正当性なき死」とは戦争による死だけではなく、われわれの日常の延長線上に現在も潜在しているからである。
3 結語
詩は滅んだ、と谷川雁が宣言して 年が経過した。確かに滅んだように見える。書店の詩のコーナーは縮小を続け閑散としている。商業誌に掲載される作品は、内容がないままにメタファーとレトリックで飾り立てられ悪臭を放っている。一方で○○賞は花盛りだが、「詩人の集まりと称するものに詩人が一人もいないことがあり得る」(ハイデッガー)のではないか。詩や詩人は滅んだのだろうか。
日本の詩を近代詩/戦後詩/現代詩と区分できるとすると、現代詩は、戦後詩の持っていた問題意識を切断したことろから始まった、と考えることができるのではないか。一般に、芸術は先行する芸術を否定することで革新性を獲得できると言うことはできるかもしれない。戦後詩が近代詩を否定して始まったように、現代詩は戦後詩を否定して新しさを獲得したのだと。しかし、この考え方には、新奇さとアクチャリティは常にイコールではない、という視点が欠如している。現代詩がなぜかくも低調なのか、に対する答えの1つはここにあるような気がする。
浜田知章は戦後詩から出発し現在も創作活動の一線にある。戦後詩の持つ問題意識を切断することなく、保持し続けている詩人という意味では、現代詩の詩人とは言えないのかもしれない。しかし、逆に、戦後詩人であり続けることで作品にアクチャリティを維持できているのだ。現在、詩を書く者が単なる小手先の新奇さではなく、真にアクチャルであろうと欲するなら、浜田知章の問いかけは重要な意味を持ってくるに違いない。
注1 浜田知章「リアリズム詩論のための覚書」風壽社 1997年
注2 鈴木比佐雄「詩の原故郷へ」本多企画 1997年
注3 浜田知章、同掲書
注4 浜田知章、同掲書
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