『詩を書くときに「何のために書くのか」と詩人たちは考 える。あるいは、書きたいから書く、書かずにいられないから書くという詩人もいるだろう。それはどちらでも良いと思っている。
それよりも、「何に向き合って書くのか」ということを第 一義に考えている。そして「現実に向き合って書く」ということを原点に置いて詩を書いている。
リアリティーに裏打ちされた詩を、またはリアリティーに打ち込む楔のような詩を書こうとしている。そこに調味料のような抒情が加えられれば私の詩姿は適えられる。
その作品を読む人の心にどのくらい浸透させていけるかが、次の課題である。』
以上が「下野国分寺 詩の教室」のテキストにもなっている 〈四十人の『詩姿の原点』・〉に掲載された私の詩姿の原点である。
第五十八回の詩の教室ではこの内容をもう少し詳細に解説しながら話をした。
「何のために詩を書くのか」という問いがよく発せられるが、私はそれよりも、「何に向き合って詩を書くのか」ということを優先して書いている。
それは、何故かというと、自分が人間として立脚しているものが、何だろうと考えたとき、それは全て、現実という動かし難いものだからである。
過去も現在も、一秒後、一分後、一時間後、その積み重ねである一ヶ月後、一年後の未来も全て現実である。この現実の移動の中に悔いや願望や夢があるという考え方である。そして、これらをベースに何か目標を立て、それに向かって生きていく。その現実の中で人間が行ういろいろな営み、生活、仕事、芸術、娯楽、ボランティアなどの中で詩をどのように生み出し、アピールしていくか。
もちろん、詩は、文学という芸術の中の一ジャンルなので、その詩を読んでくれる人(詩を書かない人も含めて)すべての人に、何か感動を与えるか、何かを考えるきっかけになり得るか、そういうものが、何もないという結果であればその詩は失敗作だと思っている。
詩姿の原点としては適えられたとしても、読む人の心に何も残らなければ、失敗作だということなのだ。それは、抒情詩であれ、反戦詩であれ同じことである。
ちょっと横道にそれるが、反戦詩は詩ではないという詩人がいる。その詩人は『詩というものと反戦の心とは別次元のものだ、だから反戦の言葉は詩にならない』という主張である。私は反論したが、結局、相容れなかった。戦争という人類最大の罪悪だけを除いての現実はあり得ないし、戦争のない世の中にしなければいけないというのが、一部の人を除く人類の目標なはずだから、それを詩のテーマの埒外に置くというのは、とても、私には考えられないことである。
私の主張するリアリティーに裏打され、しかも、私が感動した詩集に、山本十四尾さんの『水の充実』がある。その中から「箸」「ゆうぐれ」「鯨」を朗読してみる。(朗読詩省略)
どの詩も正にリアリティーがあり、愛や抒情やペーソスがあり、「ゆうぐれ」は抒情が効いていて、特に私の好きな作品である。
「鯨」という詩は、私の拙詩集『囁く鯨』とも深く関連しているので、若干、捕鯨についての国際的動向について報告して話を終りたい。
一、今年六月、国際捕鯨委員会(IWC)で「商業捕鯨禁止は不要とする宣言」が採択された。
一、今年十月十七日、アイスランドが一九八五年から停止していた商業捕鯨を再開すると発表。IWCが商業捕鯨の一時禁止(モラトリアム)を継続するなか、商業捕鯨に踏み切るのは、ノルウェーに続いて二ヵ国目。
一、資源量は、白ナガス鯨など大型鯨種を除いた小型鯨種のミンク鯨、イワシ鯨などは、完全に資源回復しているとの調査捕鯨によるデータがあり、毎年、IWCに提出されている。
一、商業捕鯨の見通し(私見)
再開に必要なIWC加盟国の四分の三の賛成を得るのは当面厳しい。
理由は「イギリス、アメリカ、オーストラリアなどの反捕鯨国がまだ強く反対していることや、日本やアイスランドなどのように漁業に大きなウェートのある国が、鯨の餌となっている、いわし、さんま、いかなどの小型魚種への影響を受けているが、イギリス、アメリカなどはそれには関係なく、動物愛護の精神を旗印にしている。鯨を食料とすることへの価値感の相違がある」などである。
二〇〇六・十二・八
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