詩 の 原 故 郷 を 求 め て
株式会社コールサック社のグラデーション
『原爆詩一八一人集』出版記念会・全記録
株式会社コールサック社の役立つスペーサー
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◎第一部 参加詩人あいさつ

司会・長津功三良(ながつ こうざぶろう) 皆さんこんにちは。大勢の皆さんとこういう有意義な会合に出るのは、大変うれしく思っております。
  それでは、第二部に入りたいと思います。最初に、詩集に参加していただいた方の中で主なメンバーの御庄博実さんはご出席できなかったので、後ほどメッセージを読ませていただきます。
  まず最初に、日本現代詩人会の前会長でもあり、現在は「龍生塾」ということで若手の育成に尽力されております長谷川龍生さん、ご挨拶をお願いいたします。『一八一人集』の解説も書いていただいております。

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  長谷川龍生(はせがわ りゅうせい)
  百八十一人の原爆詩の出版、おめでとうございます。
  じつは、去る十一月十四日に読売新聞のコラム欄に「エノラ・ゲイの顔」という文章が載っておりましたので、これをちょっと読ませていただきます。
  《「一つだけはっきりさせておきたい。私の飛行機の搭乗員はだれ一人心の病を抱えていないし、眠れない夜を過ごしていない」》││これは読売新聞大阪本社編集委員の竹村登茂子さんという人が書いているコラムの文章であります。一九八五年、アメリカの雑誌のインタビューでポール・ティベッツというエノラ・ゲイの機長さんがそういうことを言ったわけです。
  《六十二年前の原爆投下に関してこう答えてきたポール・ティベッツ氏が今月、九十二歳で亡くなった。広島に原子爆弾を落としたエノラ・ゲイ機の機長。……操縦技術に優れ、爆弾を投下するために生まれてきた男」と言われていたそうだ。》
被爆者でおそらく唯一彼に会った人がいる。元広島平和記念資料館長の高橋昭博さん(七十六歳)。二十七年前、初めはこわばった顔をしていたが、面会後約三十分間高橋さんのケロイドの残る手を握り続けてくれた。その時も「再び命令が下れば同じことをします」とポール・ティベッツ氏は断言した。そして、「だから戦争を起こしてはいけません」と。「恨みな自身や広島が味わった苦しみは消せるわけではないが、だから…」とさすってくれたから、高橋さんは約十年にわたってそのポール・ティベッツと手紙を交換し続けた。彼からの返事は三通に一通ほど。原爆への質問にも、近況を尋ねた時も、丁寧な手紙が来た。しかしいつしかそれも途切れた。この英雄も彼に向けられた被爆者との接触を嫌う何かを感じたのではないかと高橋さんは思う。
  英雄にも憎悪の対象にもなったティベッツ氏は、死にあたって墓や葬式を拒否したという。「彼なら、そうするだろうと思いましたよ。彼なりの良心でしょう」と高橋昭博さんは言う。「人間の顔が出てきたのだと思います」。本当の顔を隠した半生。もしそうなら、苦い時を送ってきたのだろう》と書いています。
  この前に私は、長津さんが詩を書いていますが、テニヤン島から出発したエノラ・ゲイのいろんな飛行機の中の非常に細かい日記、つまりテニヤン島からエノラ・ゲイが飛び立って、そして広島の上空へ来て、そして原爆投下をして、そしてそれからまたテニヤン島へ帰って行くいろんな状況を細かく書いたエノラ・ゲイという飛行機の中の日記があるのですが、その日記の現物、ドキュメントがアメリカで二千百万円かで競り落とされた。それが誰の手に渡ったかということは分らないというふうな記事を、このコラムを発見する前に私は読みました。
  そういうものを読んでいて、どうもやはりこの読売新聞の竹村登茂子さんの記事も脇が甘いという感じで、ちょっと(笑)今の日本のマスコミはもっと深く突っ込んで書くというふうな、つまり考え方とかそういう心構えみたいなものが無いですね。そう思って、これはやはり『原爆詩一八一人集』の英語版というものができるわけで、それが発信されて全世界に広まって行くということは、ものすごく大切なことだと思いますし、できれば私としてはフランス語にも翻訳してもらいたい。それから、ロシア語にも翻訳していただきたい。それからアラブの方の言葉にも翻訳していただきたい。それから中南米の方の言葉にも、ベネズエラ、それから……いろんな言葉に翻訳して、世界に広まってもらいたいという気持ちがあるわけです。それは例えばロシア語に翻訳した場合は、かつてのソ連の方もソ連が崩壊してそしてロシアの民族国家にいろいろ細かい国が出来て、それでそこにもロシア語で浸透していく。するとその民族国家が民族の言葉でそれをまたさらに翻訳していくだろう。それからフランス語ならば、フランスのかつての植民地がありますし、北アフリカのアルジェリアとかモロッコとかいう所にもやはりその国々のインテリだとか何かがフランス語を知っていますので、そういう所にも浸透していくだろうと思っています。
  この『一八一人集』が一つの大きな打撃力になって世界に浸透していけば良いのではないかと私はずっと思っています。それはもちろん鈴木比佐雄さん、長津功三良さん、そして山本十四尾さんのいろんなご努力にさらにまた今後ご努力を重ねていただきたいと思っているわけです。特に長津功三良さんは、来る二十四日に小野十三郎賞の授賞式がありまして、その時に長津功三良さんの書いた詩集『影たちの墓碑銘』の授賞式がありますので、これも一つの決定になるのではないだろうかと考えております。この詩集が、もちろんたくさんのいろんな日本のマスコミの地方新聞などいろんなところに取り上げられましたけれども、さらにもっともっと輪を大きくして、そしてその波紋が全世界に通じるようになればと思っております。
  それと同時に、つまり原爆の作品をいろいろ書いていく時に、今後世界のいろいろな紛争、それから戦争で非常に惨めな思いをしている貧しい人達、また貧しいところに落とし込まれた人達にも通じるような、そういう何か運動もあれば良いのではないかと思ったりもするわけであります。我が国の広島・長崎に関しては。広島と長崎のこのスラングという、都市の中におけるそういうところを少し際どく洞察していって詩を書いていただきたいと思うわけでございます。
  少し長くなりましたが、本日は皆さま、全国から来ていただきまして大変ありがとうございます。さらに、先ほども山本さんがおっしゃいましたけれども、この輪をさらに大きくしていってまいりたいと思う次第であります。これで挨拶を終わります。(一同拍手)
 
長津功三良 長谷川さん、どうもありがとうございました。
  この『一八一人集』はまだまだ完全なものとは言えないと思うのです。いろいろとまだ手落ちとか、遺族の方にご了解が得られなくて載せていないという問題もあるし、「実は私も原爆詩をずいぶん前から書いていますよ」という方も後からいろいろ聞いたりしています。いずれ鈴木さんや山本さんとご相談をして、できるだけまた多くの方を入れた「原爆詩といえばこれだ」というふうな本にまとめていきたいと思っておりますので、ご協力をお願いします。
  続きまして、原爆詩集にも「ヒロシマが告げるもの」(『一八一人集』二八八頁)という解説を書いていただきました石川逸子さんにご挨拶をお願いしたいと思います。

石川逸子(いしかわ いつこ)
  大勢の素晴らしい詩人達がお見えになっていらっしゃいます中で早めにご挨拶するのは申し訳ないようなのですが……。今日もこちらに来る途中で改めてこの『一八一人集』を読んでいたのですけれども、ちょうど広島・長崎の被爆者、それ以後の核被害の方たち、その方たちの被害、そしてまた人生というのがそれぞれ一つひとつ全く違う顔を持っているように、このたびここに寄せられた一人ひとりの詩はそれぞれその方の人生を踏まえて違う顔を持ち、そしてその中で互いが響き合い素晴らしいオーケストラを奏でているような気がいたしました。そして一刻もこれが早く日本だけでなく世界に向けて発信されることを、関係者の方たちは非常に大変だと思いますがお願いしたいと思います。今日はほんとうに皆さま、おめでとうございます。
  わたくしは思っていることは解説に書かせていただきましたので、今日は少し詩と離れるかもしれませんが、ごく最近ちょっと立ち寄ったことについてお話ししたいと思います。
  去る十一月一日に、韓国の平澤(ピョンテク)という所から旧三菱に強制連行された方たちの最高裁の判決がございまして、これは非常に画期的なことだと思うのですけれども勝訴し、そして日本の国はこの人達に国家賠償しなければいけないということが決まったのです。それで、少しこれはややこしいのですが、韓国ほか日本の広島・長崎で被爆して日本の外に住まわれている方たちに対しては、特に一番人数が多いのは韓国、北朝鮮にも今居られるようですがこの朝鮮人の方たちへの差別政策だったと思うのですが、非常に冷たい扱いを日本政府がしてまいりました。本来ならば植民地にしたがゆえに日本に強制的に連れて来られた、あるいは、土地を奪われたために日本に来ざるを得なかった方たちが非常につらい条件の中で軍事都市の広島で働かれていたわけですから、そこで被爆した方たちについては日本人よりも先に補償し援護すべきだったと思いますが、その反対でした。
  それで、今回勝訴された方たちというのは、わたくしも一度行ったことがあるのですが、平澤(ピョンテク)という所から年齢徴用といいまして二十二歳だった方たちが、ちょうど一家の大黒柱になる人達が、突然に「何が何でも来い」と言われて引っ張って連れて来られた。釜山(プサン)からは三菱の印が付いた帽子を被った人達に引率され、そして日本人の警官に見張られて汽車の中ではトイレも行けなかったという監視状態の中で連れて来られ、そして働いているうちに被爆なさったわけです。わりあいに三菱は爆心地から離れていますが、その時の状況でまたお一人ひとりにも被爆の状況は違うわけですけれども。このたびの裁判は一九七四年に旧厚生省が「日本に来た者については被爆者手帳を出す」。これも孫振斗さんという方が裁判を起こした結果そうなったのですが。ただ、日本にいる間はその手帳は有効で健康管理手当というのも出すけれども、一旦外へ出たら、国へ戻ったらもうそのお金は出さないという通達を局長が作ったのです。それに対して韓国の方たちは非常に憤慨されて、そして今度は他の韓国の方が「いったい日本は法治国家なのか? 法律よりも一局長の通達の方が上なのか? それを問いたい」ということで裁判を起こされまして、これが「厚生省がおかしい」という判決が下ったのです。そうしますと、その判決が下ったのを受けて三菱に連れて来られた方たちが「自分達はもうどうせ日本に行って被爆者手帳をもらったとしても国に暮していればお金は出ないのだから、行ってもしょうがない」というような形でそのまま過ごして来たけれども、これは日本の国の責任なのだからその間の受けた損害を賠償してほしいとこういう裁判を起こされたのです。それが十二年がかりで地裁、高裁すべて原告の方たちが勝ちまして、そして今回最高裁で確定したのですけれども、もうその間に四十人以上おられた原告の方たちはほとんど亡くなられてしまいました。それから三菱は、連れてくる時に「給料の半分は家族に送ってやるから心配するな」と言って皆信じていたのですが、帰ってみたらば送られてなくて、その間に働き手が無くて乳飲み子が餓死していたり、それから朝鮮総督府に何から何まで供出させられて、屋根が剥がれて青空の中で家で暮らしている。そういう家族の許へ帰って行ったということがありました。
  ところで、この今回の訴訟が勝ったということは幾つかの要因があるのですが、その一つは、韓国の被爆者の個人の方が「まずとにかく自分が闘う」という形で闘われ、それを韓国の協会も日本人などの支援者も支援したということがあります。それで何回も何回もいろいろな方たちがやられたということ。それからもう一つは、それまでバラバラに日本政府に要求していた在外被爆者││被爆後に日本からアメリカに渡って行かれた在米の被爆者というのはほぼ日本人です。それからブラジルにやはり行かれた方々。ブラジルに行った人は、もう広島が廃墟になったので「ブラジルに行くと良いことがあるぞ」という日本の宣伝に乗せられて行ったところが、向こうで非常に大変だったというご苦労なさった方たち││この方たちが自分達も日本国内の被爆者と同じ扱いをして欲しいということで個別に要求されていましたが、けんもほろろに扱われてきたのです。日本の政府は分断政策をとりまして、在米や在ブラジルの人達が来ると「あなた達にはほんとうはあげたいのだけれど、何しろ韓国人の被爆者が沢山いるからね」ということで、韓国のせいにして。それから今度は、「日本の被団協(日本人の被爆者の団体)は、あれは赤だからあそこに近づいてはいけませんよ」と。こういう形で皆個々バラバラだったのがこれではもうどうしようもないということで、共同行動をとられるようになったのです。それで、その在米と在ブラジル、在韓の代表者の方たちが初めて一つに、一堂に会われて握手をなさった場面にちょうどわたくしも居合わせたのですけれど、非常に感慨深いものがありました。そしてそういう国境を越えた形での共同行動、それぞれ個別に言えばいろいろ言うことが違うわけですけれど、でもほんとうに大きなことで一致してとられたということで、様々な勝利を得られてきたのではないかと思います。これはいろいろな意味で参考になるのではないかという気がしております。
  現在の日本の状況は、とにかくもう皆さまご存じのように一番たくさんの、一万発以上の大量破壊兵器を持っているアメリカ、ロシアの両方がお互いに「テロと戦う」という妙な敵をこしらえて、そしてどんどん戦争を行っていく。それこそ大量殺人を行い続けていてガンガン使っているわけですけれども、そのアメリカにまた日本がぴったりとくっついて。武器産業のためには敵が必要だから、とにかく常に敵が必要なんですね。日本の場合はとにかく北朝鮮というのを「これが敵だ」と飛びついて、もうものすごい大宣伝を行って、そして憲法改正まで目論んでいるようですけど。久間旧防衛相の「しょうがない」という発言(〇七年六月三十日、久間防衛相は米国による原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と発言・編集部注)は、日本政府全体の正直な気持ちを暴露したものだというふうに思われます。
  何だかちょっと詩とは離れたようですが、あまり離れてもいないとも思うのですが、拙い話をしてしまいました。お許しくださいませ。(一同拍手)

長津功三郎 石川さん、どうもありがとうございました。
  それでは、プログラムに従いまして進めていきたいと思います。京都からお越しいただいて、昨年と今年と生活語の詩集をお纏めになられました。現在もまたコールサックの鈴木さんと一緒に皆さんのお手許に趣意書が配られておりますが皆さんに呼び掛けてそういう詩集を作ろうということでございます。有馬敲さん、よろしくお願いいたします。

有馬敲(ありまたかし)
  今朝、京都からやって来ました。前月十月二十五日から二十九日までわたくしはインドのニューデリーにあるネール大学に行っておりました。日本のヒンディー学者とインドの日本語を勉強しているデリー大学の大学院生と一緒のゼミナールというような形で、このような教室で日本文学について会議をしました。日本から行った有名なヒンディー学者とか古典の和歌をやっておられる方、あるいは近代日本文学をやっておられる方、大学の名誉教授といった方々の中に肩書の無い一介の日本の詩人ということで呼ばれて行って来ました。
  そこでありました中で、日本の学者さんが日本の文化・文学をご紹介される時には古典の和歌、あるいは近代文学の石川啄木あるいは宮沢賢治、与謝野晶子、樋口一葉、いろいろなことを教えておられるようですが、戦後の文学については、インドではあまり日本文学を勉強されている方はご存じありません。わたくしもこの十年間余りあちらこちらを野良犬のようにうろついてまいりましたけれども、日本の詩と言えばまず、「俳句」です。その次に「短歌」です。コンテンポラリー・ポエトリーの「現代詩」というのはほとんど知られておりません。それで、このゼミナールで宮沢賢治とか石川啄木とかを日本の学者がいろいろとデリー大学の日本語を学ぶ大学院生にコメントをされておる中で、あるネール大学の先生がレポートを出した時に、ひと言「峠三吉や原民喜が原爆の落ちた詩集を出している」と話しました。わたくしは戦後文学についてそのように話されたインドの先生に「ことし日本では『原爆詩一八一人集』出ましたが、ご存じですか?」と質問しましたところ、その先生は「知っております」と答えました。「なぜですか」と訊くと、「インターネットでそういうインフォメーションを私は検索いたしました」ということであります。話せば長ですが、この『原爆詩一八一人集』をインドのその先生が知っておられたということで、その会議のあといろいろと話をいたしました。
  わたくしの思いますのは、こんど『原爆詩一八一人集』が出たあと、その英訳をそこにおられる郡山先生はじめごいろいろ尽力いただいておりますが、英訳と同時に世界の各国で日本語を勉強している人達にこの『原爆詩一八一人集』を知ってもらうことをしたらどうか。というのは現在、世界で日本語を学んでいる人はおよそ三百万人いるといわれます。すると、この一冊をその中の人に読んでいただくことによって日本語のニュアンスを直接知ってもらうことができるのではないか。ひと口に英語というのは、それは世界の共通語になっていますが、それとともにわたくしはそれが出版された後、例えばその原作者が外国に行ってその詩を英語なり日本語で読む。日本語でしかできない方はトランスレーターをつけてその国の言葉、例えばスペインの言葉なりロシア語なりをやるという「行動」が必要ではないかと思います。今までの日本の詩人は、書いて、郵便局に送って、出版して、詩集を出して、あるいは出版記念会、ということで満足していたかも知れません。わたくしもインドの学生達と話をする時は日本語で話したり下手な英語で話したりいたしますが、その原作者が英語は下手でも現場へ行って、それを読むとかいうコミュニケーションを英訳と同時にやればいかがかなと思います。特に最近の若い方は、英語は僕なんかよりはるかに上手ですから、そういう個人的な形でこの『原爆詩一八一人集』をさらに広げていくことが重要ではないかと思います。その意味で近く英訳詩集が出ることはうれしいことです。
  そのように考えながら十一月上旬、わたくしはある用事で久しぶりに広島へ行きました。あそこには京都からの古い市電が走っておりますね。わたくしがこの『原爆詩一八一人集』に発表いたしました「ヒロシマの鳩」という作品の中には「祇園」「西陣」「銀閣寺」という行き先を書いております。それが今やはり広島市内に走っているだろうかという関心をもって見ましたところ、元気に走っておりました。ただ、昔は「銀閣寺道」とわたくしが学生時代に行き先を書かれていたものが、「銀閣」としか書いてなかった。というのは、もうリフォームして愛称として行き先をぶら下げる、ぶら下がっている。しかし車体自体は京都市電のものでした。そしてまた、平和公園の鳩の数が最近は以前よりは少なくなったのではないでしょう。さらに、あの相生橋のそばにある鈴木三重吉の銅像のそばには枝垂れ柳が前はございましたが、それがこんど行った時には、相生橋はもう二十年数前一九八三年に新しくされておりますが、鈴木三重吉のその枝垂れ柳が無くなっている。そしてデジカメ、やケイタイの人達が原爆ドームを取り巻いているという状況でありました。その時わたくしが思いましたのは、ひと口に「過去の広島の原爆の悲しみ」というところから、今後は「現在形の広島」「原爆が落ちた広島」から「未来形の広島」、それは世界に核兵器を使用するイラクあるいは各国でウラニウム、そういうものを使用する戦争の悪への詩人の眼が必要ではないかとということです。そのあと、平和記念資料館を訪れましたところ、そこの記念品コーナーに、この『原爆詩一八一人集』が展示されているのを見つけて、その認識をあらたにして帰ってきたばかりです。
  あまり大袈裟なことは申せませんが、今日全国から来られた方々はそういう現在、未来形の想いをそれぞれこのアンソロジーの作品に発表されたのではないかと思います。
  もっとお話ししたいのですが、最後に、私が発表しました「ヒロシマの鳩」を読ませていただきたいと思います。

 ヒロシマの鳩

クウ、クウ、クウ
空、空、空、空、空
昼前の広場から
いっせいに飛び立った鳩の群れが
元安川の上をゆっくり旋回する
かがやく噴水よ もっと高く
真夏の空にまっすぐ吹きあがれ
蒸れるそよ風よ もっと生ぬるく
よどむ川端から強く吹きつけよ
相生橋のほとりの
鈴木三重吉の碑にそよぎかかる
しだれ柳の前にたたずむとき
崩れかかるドームの
かたむく残骸よりも斜めに
慟哭している おびただしい死者たちの
短い影

おお 幻か
かげろうが燃える向こうから
身動きしない人間たちを積んで
京都の地名をつけた中古の電車が走ってくる
「祇園」「西陣」「銀閣寺」……
その上を横切って
本川へ舞いもどるひと群れの鳩よ
張りつめた青い空にむけて
近くの球場から聞こえる
大歓声よりも高く鳴け
苦、苦、苦、苦、苦
クウ、クウ、クウ
    (『原爆詩一八一人集』91頁)

長津功三良 感動的なお話と朗読、ありがとうございました。
  一応皆さんは「先生」ですが、敬称はすべて「さん」付けでやらせていただきます。ご了解ください。
  長谷川龍生さんもおっしゃいましたが、フランス語とかスペイン語、英語だけではなくもっと翻訳せいというお話もありました。以前十年前に浜田知章さんが広島に見えた時に、「広島から広島の哲学を発信せよ」ということを強く教えていただいた記憶があります。印象に残っております。その頃からちょうど鈴木さんとお繋がりができて、今回このような本をご一緒にさせていただくことができたのですが。今も有馬さんから「詩人よ、広告せよ」というような意味のお言葉を頂いて、我々も大いにこれから頑張っていかなくてはいけないと思います
  次は、今回の『英語版』を間もなく、クリスマスまでには出したいということでだいぶ馬力をかけていただいたのですが、翻訳を中心になって担当していただきました郡山直さんにお言葉を頂きたいと思います。他にも水崎野里子さん、結城文さん、大山真善美さんたちに翻訳はお手伝いいただいております。

郡山直(こおりやま なおし)
  私はこの東洋大学に昭和三十六年から三十六年間、つまり一九六一年から九七年まで勤めておりました。今日はまた皆さん方のこの集まりにこの場所を提供することができて、嬉しく思います。
  私は、鹿児島県奄美諸島の喜界島という島で生まれました。鹿児島師範学校に私は昭和十六年四月に入ったのですが、十二月にはもう大東亜戦争が始まりました。最初の年は英語三時間、二年生になったら二時間、三年生になったらもう無くなったのではなかったかな? 英語排斥の時代でしたから。
  それで、一九四五年に戦争が終わりまして確か次の年、四六年から奄美地方は鹿児島県から切り離されて沖縄の軍政府が支配したのです。その関係で本土には来られない。もう仕方なく沖縄へ行きまして、沖縄で外国語学校を六カ月で出て、それから向こうの嘉手納基地で通訳をしたり、軍政府で翻訳などをしました。ちょうど琉球弧といいますか奄美・沖縄・宮古諸島・八重山諸島の島々から一九五〇年に留学生五十二名がアメリカに派遣されました。試験を受けてパスして行ったのですが。
  それで__話したいことがいっぱいあってどれを話そうか困っていますが、二十八名がニューメキシコ州のニューメキシコ大学に送られました。私はそのうちの一人です。ニューメキシコ州といいますと、今度の原子爆弾が研究され実際に実験が行われたのもニューメキシコです。ニューメキシコ州のロス・アラモスLos Alamosに原子爆弾の研究所があり、盛んにそこで研究されてニューメキシコ州の砂漠で実験されたのです。その模様が浜田知章さんの詩(「太陽を射たもの」)の冒頭に引用されています。
  それで私は、そこのニューメキシコ大学の一年生に入ってどんな授業を取ろうか散々迷ってから、英語は必ず取らないといけなかったので英語、それと自然科学のchemistry、それからanthropology(人類学)、それから心理学をごちゃ混ぜに取ったのですが。その時に取ったchemistryの教科書を私はここに持って来ました。(教科書を提示しながら)この後ろの方を見ますと、ちゃんとペンで書いてあるんですね、「一九五〇年九月十五日/ニューメキシコ大学の書店で買った」と。テキストの前の方にはchemistryの授業を持ってくださったステフェンという先生の名前とか__講義は一年生が大体二百名くらいいましたね。それで階段教室になっている__私の座席は前の方の三列目の五番目だと席まで書いてあります。この授業を取って非常に良かったと思うのは、湯川秀樹博士の「原子力と人間」の詩を訳すのに非常に役立ったのです。大学で受けた授業でこんなに身に染みて役立ったと思うのは一つしかない。ほかはどんな授業を取ってももうほとんど忘れてしまっている、残っていません。それでこれは全体で五百頁くらいある本ですが、三百八十二頁の訳をさっと紹介します。三行余りでちょっと広島のことを書いてあります。
  《一九四八年八月の早い頃、今までに無かったものすごい爆発力をもった原子爆弾が広島という日本の都市に投下された。その数日後、日本との戦争は終わった》__こう書いてあります。

 『一八一人集』を訳しているうちにいろいろな事が起きるんですね。私は私の今日のこの話に題を付けるとしますと、「翻訳者の泣き所と喜び」と付けたいのです。「泣き所」はやはり私の語彙。日本語の力よりもはるかに語彙の豊富な人達が独特の感性で独特の文体で書いてある。時々意味が取りにくいのがあるのです。それを訳すのは非常に骨が折れる。生きていらっしゃる方には二、三人電話を掛けて質問をしたことがあります。亡くなっている方はもう電話の掛けようもなく、どうしたかというと散々一生懸命こういう意味だろうと思ってやりました。中には割と訳しやすくて「ああ、上手くいったぞ!」という満足感を感じる時があるのです。それは翻訳者のよろこびですね。「いやぁ、これは原作よりも確かに良い」(一同笑い)などと思ったこともあるのです。いろいろな苦労もあり喜びもある、その一端を私は話しています。
  英語では、つまり韻、音を揃えることが非常に大事になるのです。では、どれくらいにやったらいいのか。なるべく韻を踏ませたいところは踏ませたい。なるべく頭韻alliterationも使えるところは使った方が良いだろうと思いました。一つの例を紹介すると、大崎二郎さんの詩「笑い 三つ」(一六五頁・下段三行目)に「冷水でゴシゴシ顔を洗った」││この「ゴシゴシ洗った」というイメージをどうしたらいいか。「念を入れて」とすればcarefullyでもいいし、「力強く」ならbrisklyでもいい。ところが、「こする」「洗う」という時にscrubという単語がありますね? これはその前にどんな副詞句を付けたら良いかと思って、ふと思いついたのが「念入りに」というscrupulouslyです。それでscrubと頭を合わせてみたのです。これはただ私が勝手にやったことなのですが。時々そういうテクニックも入れられたら入れてみようと思いました。
  それからリズムの面で日本語と英語の違いは、英語はタッタッタッタッとリズムが確かに良いのです。日本では平坦に聞こえる文章も、英語ではサッ、サッ、サッ、サッ。これは日本語と英語のはっきりした違いだと思います。日本語も非常にきれいな良い言葉ですよ。
  一六九頁の沖長ルミ子さんの「振り向くと」という詩がある。この最後の四行目「歩いて 歩いて わたしを探して/歩いて 歩いて わたしを見つけて/歩いて 歩いて わたしの名を呼んで/生きて 生きて わたしたちの地球を助けて」これを訳しているうちに、「ウン、うまいリズムができるぞ。強・弱、強・弱になりそうだ」。それでちょっと鉢巻を締めて袖を捲り上げてやったのです。
  《 Walk and walk and look for me/Walk and walk and find me out/Walk and walk and call my name/Live and live and save our earth 》
__というふうに出来上がりました。それで、それも二行目はWalk and walk and find meで終わっているのです。いやぁ何か物足りないと思ってoutを最後に付けたら、Walk and walk and find me out。ピシャっといったのです。これは、まあそう言っては原作者の沖長さんには申し訳ないけれども、この響きにおいてはこの訳は外人が読んだ時に「あぁ、いいなあ」と思うのではないかと思います。(一同笑い・拍手)……どうも、法螺を吹いてすみません。
  飽くまでも私たち英訳者は日本人ですから、ちょっと外国人の協力者に見てもらって一応コミュニケーションを密にしてやりました。そうするとグッと良くなる場合があるのですね。日本語式の表現が「こういうのはあまりアメリカではこんな表現はしない」「こう書いた方が良いだろう」と。それは非常に参考にさせてもらい、訳文ができました。
  皆さんお手持ちの編集者からのことば(『原爆詩集一八一人集』英語版ご挨拶)の原本を頂いて私なりに訳し、ネイティヴ・チェッカーに見てもらって話し合いました。例えば「ヒロシマの哲学」はそのままにするとPhilosophy of Hiroshimaですが、そう訳したところが、私の協力者がこれではちょっと解りにくいから「ヒロシマの悲劇から生まれた哲学」としたらどうかとPhilosophy rising from the tragedy of Hiroshimaとやったのです。また私は解り易いと感心しながらそれを参考にさせてもらいました。
もう終わりたいのですけれども、あと四、五分……良いでしょうか? アメリカでこんなことがありました。││アインシュタインがちょうど相対性理論を発表して非常に有名になった。彼は運転手つきの車であちこちの大学で講演して回った。そうするとある日、その運転手が運転しながら「アインシュタイン先生、もう僕は先生の話を三十回聴いた。だからもう私にも先生の講義はできますよ」と言った。するとアインシュタインが何て言ったか?「そうか、では君にチャンスをあげよう。今度行く学校はまだ僕の顔を見ていないから、君は向こうへ行ったらちゃんとアインシュタインになり済ませ。僕は君の運転手の帽子を被って隅に座っているから」。それで運転手はもう完璧な講義をして、「ではこれで終わります」と帰ろうとした。そうすると中から「アインシュタイン先生、質問。先生が言ったここのところが分らない」と言って高等数学の数式を持ち出してきそうになった。もう運転手は困ったなと思ったが、機転を利かして「いやぁ、あんたの今の質問は実に簡単な答えになる。僕はちょっとがっかりしている。それがどれだけ簡単か、僕の運転手がそこにいるから彼に来て説明してもらおう」と言ったわけです。(一同笑い)これはなかなか面白いと思う。私はもう六十年くらい英語を勉強したけど、いろいろ小話などいっぱいあったけどこれは一番気に入っている。
  では、私の話はこれで終わります。(一同拍手)

長津功三良 ありがとうございました。翻訳者としてのご苦労も大変あったと思うのですが、間もなく立派な本ができます。
  ちょうど翻訳の話が出ましたので皆さんにお伝えしますが、『一八一人集』にご参加いただいた皆さんの英訳がありますから、一枚ずつ自分の篇だけお持ち帰りになり、今の英訳スタッフでどのように自分の詩が解釈され翻訳されているかということをご参考にしてください。
  それでは続きまして、大阪からお越しいただいています方言詩の大変ご高名な方ですが島田陽子さん、ご挨拶をよろしくお願いいたします。

島田陽子(しまだ ようこ)
  こんにちは。ほんとうに楽しくてためになるお話をたっぷり聴かせていただきました後でわたくしのしょうもないお話など短い方がよろしいと思います。今日わたくしがこのような高い所に出させていただく力は全く無くてほんとうに申し訳ないのですが、どういうわけかお約束してしまいました。
  わたくしは皆さまと違いまして、今まで原爆詩は一篇も書いてないのです。反戦・反核の詩というのはそれとなく分かるようにとか、あるいは生のままでとか、言葉あそびでとか、子ども用にとか、いろいろ書いているのですが、広島と向き合った原爆詩というのは一篇も書けなかったのです。と申しますのは、自分が被爆者でもありませんし被爆者の身内も持っておりません。しかも想像力の貧しいわたくしがとてもそういう詩は書けない。わたくしが書かなくてもたくさんの詩人達が素晴らしい作品を書いていらっしゃるから、もうそれはわたくしが代弁して欲しいようなことを書いていらっしゃるから、わたくしが何も書く必要はないというふうな変な満足感がございまして、書いて来なかったのです。
  ところが今回鈴木さんの方から声をかけていただきました時に、もう自分は一生書かないだろうと思っていたのにふっと気が迷いまして、やはり自分も書いてみようかなあと、詩人の末席におる者としてせめて一篇ちゃんと広島と向き合った詩を書くべきではないか、たとえ貧しくても拙くても__という思いになりました。その基にありますのは、わたくしは一昨年の暮に癌を手術いたしまして、膵臓ですからちょっと再発がどうのこうのと脅かされているのですけれども、毎月診察を受けて数値を計って、あるいはCTを撮ったり、何かしょっちゅう検査ばかりさせられておりまして、再発を予防しながらいま小康を保って動ける間は動きたいと思ってやっているのです。癌というのは不思議な病気で、今こうして元気にしているし大した兆候が出ていないから快癒したのか全快したのかというとそうでもなさそうなので、「癌が治った」というのはどこで言えるのか分らないのですが。そのような状況がございましたので、やはり一篇ぐらい書きたい。しかも諺に「いつまでもあると思うな親の恩」という言葉がございますね? それと同じで「いつまでもあると思うなわが命」というような感じになりまして、一篇ともかく書いてみようと思って、やっと締め切りに間に合った貧しい拙い詩を載せさせていただきました。
  私は現在詩を書き始めた人達のグループに幾つか助言者として関わっております。わたくしの方言とか大阪弁の詩についての講演などを聴いてくださった後で、自然にその主婦達を中心にして自主的に詩を書くグループが出来ていくのです。その結果、月一回わたくしが行くことで書きたいと思っている人が書けるようになるのならお手伝いしましょうということで、そういうグループに関わっています。
  このたび『一八一人集』を皆さんに紹介しました。それまでもわたくしは自分が関わっている本は全て紹介して、本屋さんにわざわざ行って買わない人でも、わたくしが紹介することによって手に入れて読んでもらえるお手伝いができると思ってやってきたのですが、今回『一八一人集』を紹介した時はびっくりしました。もうほとんど九〇%の人が「欲しい」「読みたい」と言ってくれたのです。今まではわたくしが紹介しましても半分ほどでしたのに、今回は九〇%の人が欲しいということで、わたくしは運び屋をして教室へ持って行くために重たい思いはしましたけれども、とっても嬉しかったんですね。
今度の本を皆が喜んで読んでくれましたから、そして今度の本は構成が良かったというのでしょうか、年代別になっていますし、古典的なものも全部載っていますし、貴重な資料としても一冊そばへ置いておきたいという本に出来ていると思うのです。ですからご紹介するという立場の喜び、先ほどは「翻訳する喜び」とおっしゃっていましたが、わたくしは「紹介する喜び」というものをこのがたびよく分かりました。
  そういうことで、今までお話しなさいました視野の広い海外まで及ぶお話と比べまして、わたくしは日常の生活に足をつけての小さな活動しかできませんけれど、そういうこともやはり一つの必要なことではないか。つまりわたくしは、詩の底辺を広げたいという思いがあるのです。詩の底辺を広げるということは、わかりやすい詩を書いたら良いということではなく、分かりやすくてしかも奥のあるそういう詩を書く人達を育てたい。「育てたい」などと言うとおこがましいのですが、そのお手伝いができたらと思います。この間の「続・現代日本生活語詩集」もその人たちに呼び掛けたら、やはり各地から来ている人がいて、長崎の人も長崎弁で原爆詩を書いてくれましたしたくさんの人が参加しました。その人達はアンソロジーに参加したことで、ハードの表紙の立派な本の中に初めて自分の詩が活字で載っていると言って、喜んでいました。ですから、詩を書き始めた人達はそういうところから喜びを知って、そして詩を書くということをずっと生涯続けてくださるだろうと思います。わたくしはちょっとしたお手伝いを、詩の入り口の所でできたらいいなということでやっております。今回はほんとうに良い本を作って下さいました鈴木さん達のお陰で、原爆詩集がたくさんの人に渡りました。「良い本を作ってくださった」ということに対してお礼を申し上げます。
  英訳も楽しみですが、私自身は英語は女学校一、二年の力しかなく読めませんので残念なのです。と言いますのは、戦中の動員学徒、女学校の三、四年生の時、工場で働いてきた年代でございますので。しかも大阪大空襲、昭和二十年の六月七日にその工場街が全部狙われてやられたのです。そこへ来ていた中学生も女学生も、わたくしの女学校でも六人亡くなりましたし他の中学生もたくさん亡くなったんですね。そういう経験はしていますので、反戦・反核というのはもう身に付いた生活感情みたいなもので、思想というより「もう嫌だ」という思いはつよいのでそういうことは書けるのですが、「原爆」というもの、「広島」というものはやはり体験しないと私には書けない、私は貧しい力しか持っていないということをいつも思っていましたのに、今回は参加させていただいて良かったなあという思っております。この一冊をわたくしも読者として手に取った時にもし自分の作品がそこに無かったら、ずいぶん寂しかっただろうと思います。参加させてもらって喜んでいるということもお伝えして、今日はこれだけのお話をさせていただきました。(一同拍手)

長津功三良 島田さん、どうもありがとうございました。生活者としての視座からのお話で、やはりしっかりこれからも考えてやっていかなければいけないと思いました。
  挨拶の筆頭に御庄博実という名前が載っていますが、ちょっとご紹介します。今日はお身体の具合が悪くて来られませんでしたが、広島で活躍をしております。もうご高齢で、戦後にかなり大きな雑誌でありました「列島」の元編集同人でもありました。昭和二十六年に反戦詩的なものを書いて、日本で唯一米軍の政令一二五号違反というので逮捕された人でございます。その人がこの原爆詩集の序文を書いています。体調を崩されて、数日前までは一緒に東京へ行くという約束だったのですがどうしても微熱が取れない、勘弁してくれということでメッセージを預かっておりますので、読ませていただきます。

御庄博実(みしょう ひろみ)
  『原爆詩一八一人集』出版記念会へ(代読)
  《六十二年前の夏、広島・長崎に投下された原爆で第二次世界大戦は終わりました。「核時代の幕開け」と呼ばれて、二十世紀最大の歴史的事実と言われています。
  無差別・大量殺戮という戦争は、ヒットラーによるスペインの都市ゲルニカの無差別爆撃で始まりました。大量殺戮の兵器は毒ガス、細菌兵器などをこえて原爆につながりました。今日では一発で広島型原爆の千倍の威力をもつ水爆など、米・ソそれぞれ数万発がボタンを押せば発射できる状態で世界を取り巻いています。
  このような世界史的状況のなかで、国境を越えた一八一人の詩人の「反原爆」の詩集が一冊にまとめられた意義は、歴史的であると思います。一人の被爆者として、また詩人として、編纂を主導された長津功三良、山本十四尾両氏に尽くせぬ謝意を述べるとともに、この困難な出版を進んで引き受けられ、自らも詩人として参加されたコールサック社の鈴木比佐雄氏に感謝します。
  私は本日の出版記念会に出席する予定でしたが、数日来体調を崩して参加できなくなったことをお詫びいたします。そして、この記念会の盛大なことを祈って、広島からご挨拶をおくります。
二〇〇七年十一月十七日    御庄博実》

第二部 参加詩人のスピーチ・朗読

山本十四尾 それでは、これから第二部に入ります。
  先ほど翻訳者と長谷川龍生さんの方からも話があったように、かつてわたくしが広島の大学に講演に行った時に、原爆資料館へ長津さんと一緒に行って唖然とした事実が一つあるのです。当時広島県の詩人協会の事務局長をやっていた伊藤眞理子さんと会食する機会があってその時にもお話ししたのですけれども、広島の原爆資料館の所にあるのは峠三吉の文庫本など一冊二冊置いてあるだけだった。それを見て来て伊藤眞理子さんに「アンソロジーくらいは置いてもらうように交渉してくださいよ」と言って、…(会場の伊藤氏に向かって)「その後言っていただいたんですよね?」と問いかけ)…それから置かれるようになったかどうかは分りませんが、いま池山吉彬さんに長崎の資料館のことを聞いたら、そちらの方にはちゃんと置かれているということなので、できますればこの『英訳版』が出た段階で日本語版と一緒に並ばせていただいて、それで外人さんが来た時に関心を持って読んでいただく。そこから我々の行動がスタートしたいと思うのです。いわゆる原爆資料館にこの『英訳版』が置かれることによって、まず我々が世界に眼を向ける第一弾としていきたいと考えていますので、また長崎・広島の地元の詩人達にもお力添えを是非お願いしておきたいと思います。
  さて、第二部を司会する大掛さんにバトンタッチいたします。

司会・大掛史子(おおがけ ふみこ) 第二部を始めさせていただきます。時間がずれこみましたので少しきつくなると思いますが、だいたいお一人五分くらいの感じでスピーチと朗読の方をお願いいたします。

 最初に日高てるさん。日高さんは一九二〇年生まれという方で大変ご高齢でいらっしゃるのですけれども、たいへん全国的に活躍をなさっていらっしゃる方です。奈良県にお生まれになりまして、現在奈良の大和高田市にお住まいでいらっしゃいます。今日は奈良からわざわざいらっしゃってくださいました。長津功三良さんが「奈良のお母さん」と呼んで慕っています。詩集は『日高てる全詩集』『今晩は美しゅうございます』がございまして、「歴程」「火牛」の同人、「日本現代詩人会」の会員でいらっしゃいます。日高さん、お願いいたします。

日高てる(ひだか てる) 
  まず初めに、この『原爆詩一八一人集』をコールサック社の鈴木比佐雄さん、長津功三良さん、それから長谷川龍生氏、それから今日ここで郡山直さんの翻訳のユニークなお話もお聞きして、ありがとうございました。こうして出していただく方がいないと、どうにもなりません。よくお出しくださいましてありがとうございます。
  私はテレビは見たいものだけ見ますけれど、ラジオはずっとかけっ放しで聴いていたの。八月四日に。長津さんと鈴木さんの声がNHKラジオから聞こえてきた。あっ! と思ってびっくりしたのです。詩人というものは密かに詩を書いているものですけれども、こんなに時宜を得たこういう発表してくださる。「凄いなあ!」と思って、もう感動しました。原爆が落ちたそれが「ブラックのパンに見えた」というのがかつての右原厖の命名なのです。「ブラックパン」というもの。それで、詩誌「ブラックパン」表4に全面広告しますと言ってそれから私は原爆詩集をあちこち配って「皆読んでください」と言っているわけなのです。
  私はささやかですが、大和高田市が一九九〇年ごろ、奈良新聞にもでていおりますが、「非核宣言都市」という催しをずっとやっていて、そこに関わりを持っています。私は応援しますと言って文化協会高田の詩の教室の人と一緒に私の「水ヲクダサイ」を読んで、会場を盛り上げてきました。それが今日配りましたここ(配布資料・「平和の尊さへ熱い祈り」=一九九〇年八月五日付奈良新聞コピー)にあります。七年にもなろうとしておりますのでもう消えかけています。これは大和高田市の県広域地場産業振興センターという所でやりまして、それで日高てるが作った反核の詩「水ヲクダサイ」を、参加した約千二百人の市民と日高てるが一緒になって読んだということで。この記事によりますと、《日高てるは昭和二十四年に発表した第一詩集『めきしこの蕋(しべ)』により「日本のランボー」といわれた》という、えらいお褒めの言葉を寺田透氏に頂いております。そのようなことで、ここで一丸となって小学生にいろいろな作文を書いてもらってそれを発表して、それから市民の皆が集まって一緒に一つの部屋を「原爆反対」という言葉の坩堝にしたわけなのです。そんなことが載っていますからまたお読みください。
  私はもうかなりお婆さんですけれども、「水ヲクダサイ」は東京でも読みましたし、私はエジンバラへ演劇祭に行って来て向こうでも読んできましてね。というのは、今ここにおられる福武京子という人が私の詩の教室で一緒に勉強しているのです。私がいちばん心の休まるところはそこなのです。詩の人達は皆想いが一つでございますから。それで、大阪に「生活と文学の会」といって夏休みに高校の先生や中学の先生が講習をなさるのです。その方が「日高さん、朗読に来てください。草野心平の詩でも小野十三郎の詩でもよろしいから」と。そしてついでに言われることは、私は黒ばかり着てますからね、「黒い怪鳥が舞い下りたような黒で来てください」││こう言うのです。それでその日も黒で行ったのです。それでその前に、私の詩の教室ではとにかく「凝る」ということはよくやるのです。三分間スピーチでどれだけ話ができるかとか。そうしたら福武さんは、英語を途中で使われたのです。それで面白いから「あんた、英語で詩を書きなさい」と言ったの。それで英語で詩を書いてきたというものが私の「水ヲクダサイ」を翻訳してきたの。いつでも一緒に机を並べているのに、涙が流れてしょうがなかった。それを今日はご披露いたします。そういうことでございます。そしたら福武さん、よろしくお願いします。この詩でたくさんの朗読をしました。今日は福武さんと一緒にやります。

 「水ヲクダサイ」日高てる氏・福武京子氏による和・英デュエット
    (『一八一人集』242頁)

水ヲクダサイ
  ??原爆記念日朗読ノタメニ

水ヲ クダサイ
光ヲ クダサイ
声ヲ
言葉ヲ クダサイ
   黙ッテ死ンデイッタ人タチガ
   鎮カニ 眠ルタメニ

ヒロシマノ原爆ニ ヤラレタ人タチハ
ソノ人タチハ
黙ッテ 死ンデイッタ
生命ヲ クダサイ ト 何故言エナカッタノカ
何故 言ワナカッタノカ

 一九四五年 八月六日
  投爆下ノ 男モ女モ老人モ青年モ学生モ赤ン坊モ
  スベテ死ンダ
  犬ヤ猫ヤ小鳥ヤ草樹タチモ スベテ死ンダ
  大地ガ死ンダ
  シカシ 今モ生キナガラ死ンデイル人々ガイル
  ソノ死ノ生
ソノトキ ソレラノ生アルモノタチハ 死ニ頻シテイタカラ カ
  ソレトモ スデニ 死ンデシマッテイタカラ
  〈クダサイ〉ト 言エナカッタノカ
  ソウデハ ナイ
  ソウデハ ナイ

〈クダサイ〉
朝ノ夜明ケニ向ケテ
腕ヲ ノバシ
光ヲ クダサイ
人間ガ 人間トシテ 生キテユクタメニ
声ヲ
言葉ヲ
ソシテ
命ヲ クダサイ ト
シンジツ 叫ボウ
今 生キテイル人々ヨ

〈水ヲ クダサイ〉
トモ 言エナイデ 死ンデイッタ人々ガ
     鎮カニ
     眠ル タメニ

水ヲ クダサイ
光ヲ クダサイ
声ヲ
言葉ヲ クダサイ
ソシテ
命ヲ クダサイ  ト

GIVE ME WATER
--For the Recitation on Atomic Bomb Memorial Day--

Give me water
Give me light
Give me voices
Give me words
in order that those who died silently
are able to sleep calmly.

Those who were atomic bombed in Hiroshima
Those people
who died silently
Why couldn’t they say “Please give me life” ?
Why didnユt say so?

August 6th 1945
By atomic bomb, men, women, elderly, youth, students, babies
All died
Dogs, cats, birds, grass and trees, all died
The ground died
but there were those who are living, but died,
That life of death
At that time, as were those who were living
at the point of death?
Or as they were they already dead, couldnユt they say
“Give me water”?
Nay, it wasnユt
Nay, it wasnユt.

“Give me”
Toward dawn
Stretching arms
Give me light
In order that mankind can live as mankind
Give me
Voices,
Words and
Life:
Letユs truly shout,
all of as people who are now living!

In order that those who died
without even crying
“Give me water”
are able to sleep calmly.

Give me water
Give me light
Give me voices
Words and
Life.
 
大掛史子 貴重な力強いデュエットを、ほんとうにありがとうございました。日高さん、これからもますますお元気でご活躍くださいますように。

 次は上田由美子さん、お願いいたします。
  上田さんは広島県にお生まれになって、広島市在住です。詩画集『「白い闇」上田由美子作品集』がございます。広島ペンクラブの会「ペン誌」に所属していらっしゃいまして、「竜骨」の同人でいらっしゃいます。今日お読みいただくのは、二十部ほど作ってきてくださった「原爆ドーム」という詩をお読みくださいます。資料の中に上田さんの「原爆ドームの略歴」をお配りしてありますので、それに基づいた詩をお読みくださるということです。

上田由美子(うえだ ゆみこ)
  大変ご高名な先生の後に高い所に立ちますのはとても恐縮なのですが、お許しくださいませ。本日は『原爆詩一八一人集』がご縁で皆さまにお会いすることができ、とても嬉しく思っています。
  今日、私は『一八一人詩集』の中の詩ではなく、広島から来たということでこの日のために「原爆ドーム」に焦点を当てて詩を書いてみました。
  ただ今、会場で皆さまにお読みいただこうと、「原爆ドームの略歴」と題しましたものをお渡しいたしました。皆さまは、きっと鉄骨がむき出しになった今の原爆ドームのあのイメージしか浮かんでこない人も多いのではないでしょうか。そう思って、被爆する前の姿を「略歴」の中に書いてみました。どうぞお読みになっていただければ幸いでございます。

 わたくしは長い間、原爆のことは口にいたしませんでした。ですから私の周りの、ほんとうにごく周りの人しかわたくしが被爆手帳を持っているということを知っている人はなかったのですが、ある時私は次のような詩に出会いました。

 ひろしまの追憶は
  世界の追憶であれ
  ひろしまの嘆きは
  世界の嘆きであれ
  天地のくだける日の苦しみを
  告ぐることなく
  わが友はここに眠る

 と書かれた広島電通職員の慰霊碑の詩を知った時でした。
  あの日を知っているのは私。私には沈黙は許されない。沈黙していることは忘却につながることだと思ったのです。忘却することは、過ちを繰り返すことだと。そう思いだした頃から私は原爆詩を書こうという気持ちになりました。
  今年の八月六日、秋葉広島市長の「平和宣言」の中に、先ほどもお話がありました「広島の哲学」という言葉が出てきました。これは詩人浜田知章さんのお言葉として鈴木比佐雄さんが『一八一人集』に書かれていたお言葉を引用されたものだと思います。
  私はこの詩集ができた時に、最も読んでいただきたいのは広島の市長さんだと思いました。それで、奥様をちょっと知っていましたので訪ねて行って市長の奥様に直接手渡し、「必ずご主人にこの詩を読んでもらってくださいね」とお願いしました。なぜかといいますと、市長のところには山のように「謹呈」という詩が行くのだそうです。それでもう読み切れないのでずっと積み上げてあるだけだということを耳にしていましたので、これは奥様に渡したら絶対に読んでもらえると思いました。それで、市長のスピーチの中に「広島の哲学」という言葉が出てきました。きっと彼はあの『一八一人集』の詩集を読んでくれ、その言葉を詩の中に見つけたのだと私は今でも確信しております。
  原爆で生き残った人々、肉親を失った人々など広島の人は、そして日本の人は、この恐ろしい兵器の廃絶を願って子や孫や世界に訴え続けていくべき使命を持っています。

 『一八一人集』の表紙を飾ってくださった画家であり詩人の福田万里子様は、この本を手にすることなく他界されました。そのことはとても残念に思って、心からお悔やみ申し上げます。

 私は「一八一人」という呼び名を一八一(いっぱい)として、詩人達の「いっぱい」心のこもった祈りのようなこの詩の数々が、原爆で亡くなられた数十万人の霊のもとに届いていることと信じております。
  では、拙い詩ですが「原爆ドーム」を朗読させていただきます。

 原爆ドーム

 雪が降り続いた朝
  原爆ドームは深々と白で装い
  むきだしていたあばら骨を
  すべて覆い隠し
  天空に静かに抱かれていた

 雪が晴れ
  洗い晒しの青空を背景に
  ぽっかり浮かんだ日溜りの中のドーム
  歴史的な風景を超えて
  なぜか悲しみの中で美しい

 夏 白雲の群れからのぞく灼熱の光が
  見上げる者たちの目を射る時
  丸いドームの上を
  鳩が直線を描いて横切っていく
  原爆投下 その日を投影して
  ドームの先端は天に向かってうずくまる
  神からの許しを乞うように

 吹き抜ける木枯らしが鉄骨を震わし
  照りつける太陽がビリビリと鉄骨に伝わり
  錆びた鉄をただれさせながらも
  その形が朽ち果てるまで
  広島の大地に立ち続けるのか

 かっては
  広島県物産陳列館として
  緑かかった青銅にふちどられ
  白っぽい石材とモルタルのモダンな建物だった
  洋式庭園には八方から水を吐く噴水の池
  和風庭園には あずまやも作られていた

 失ったものの重みに耐えながら
  世界文化遺産として
  大正四年から今日まで
  齢 百年以上が過ぎようとして

 【原爆ドームの略歴】   上田由美子

 この度、『原爆詩一八一人集』の表紙を飾った原爆ドームに焦点を当ててみました。被爆者である私が一年を通して見ている原爆ドームの姿をご紹介させていただきたいと思います。おそらく多くの方々が被爆した原爆ドームの姿しか心に浮かばないのではないでしょうか。
  平和の象徴として今ある原爆ドームは、かつては物産陳列館以外に美術館としての役割も果たし、大正五年には「昭和美術展覧会」が開かれ全国の新進作家の作品を網羅して美術界に旋風を巻き起こしました。
  「洋画協会第一回展覧会」「芸州美術協会」や戦争の深化とともに昭和十二年には「傷病将兵慰問献画展覧会」なども開かれました。川面に映る建物の美しさは、広島の名所のひとつに数えられていました。
  芸術文化発展に貢献したこの建物の頭上に、将来核兵器が炸裂すると誰が想像できたでしょう。
  「原爆ドーム」という呼び名は、頂上円蓋の残骸が傘状になっている姿から「いつごろからともなく市民の間から誰言うことなく自然に言い出された」と言われています。
  このドームについては、記念として残すという考え方と、危険建造物であり被爆の悲惨な思い出につながるということで取り壊すという二つの考え方がありました。
  建物の保存か廃止かの議論は、昭和二十三年ごろ始まってから、保存するという結論が出るまでに、延々と十五年以上もかかりました。あらゆる分野の専門家によるさまざまな議論の結果として、原爆ドームは今ある姿で今日まで残されてきたのです。
  さらに、原爆ドームを単なる広島の遺跡としてではなく人類共通の平和のシンボルとして恒久的に後世にまで残そうという機運が高まりました。そのための修理費として見積もられた約二億円の内、一億円は市費で、残り一億円は平和を願う世界中の人たちに呼びかけようということになりました。
  このために一九八九年から始まった募金活動では、国の内外から次々と善意の寄付が届けられ、当初一億円を設定していた金額をはるかに上回る合計約四億円が集まりました。
  いかに多くの人びとが原爆の恐ろしさを心に深く意識しているかが現れています。原爆投下という悲劇が二度とあってはならないものとしての「誓い」が、大きな「祈り」となって世界中に広がったのです。
  補修工事は、出入り口のコンクリートの補強、鋼材塗装の塗り替え、レンガ部のひび割れへの樹脂の注入工事、そして最後に自然表面劣化を抑制するために建物全体に透明な防水塗料を吹き付けました。この薄い透明な膜が朝日に、夕日に反射して美しい姿を見せてくれます。ある時は悲しんでいるように見えたり、ある時は祈りに感じられたり、ある時は限りなく無言の抗議をしているように思えたりします。
  平和のシンボルを永久保存し、次の世代へと引き継いでいかねばならないと、『原爆詩一八一人集』の表紙を飾った原爆ドームに今、改めて思いをよせています。
  *参考資料=被爆四十五周年記念展「物産陳列館から原爆ドームへ」

[追記]
  第一回保存工事 昭和四十二年(一九六七年)
  第二回保存工事 平成二年(一九九〇年)
  第三回保存工事 原爆ドーム世界遺産指定後
          平成八年(一九九六年)
          平成十五年(二〇〇三年)

大掛史子 どうもありがとうございました。「いっぱい心のこもった詩集」││大変良いお言葉を頂きました。

 次は江口節さん、お願いいたします。
  江口さんは戦後生まれの方で、広島県の生まれで神戸市に在住していらっしゃいます。八月七日付の朝日新聞「天声人語」で江口さんの「朝顔」という詩が取り上げられまして、一躍全国的に有名になられた詩人でいらっしゃいます。詩集に『鳴きやまない蝉』『溜めていく』がありまして、「叢生」「多島海」の同人でいらっしゃいます。「日本現代詩人会」「日本詩人クラブ」の会員でいらっしゃいます。

江口節(えぐち せつ)
  はじめまして。日高先生や上田さんのように大変な体験をした方の後にお話しするのは非常におこがましいような気がするのですが……。おこがましいと言えば、私自身も戦後生まれで広島県の三原市に生まれ育ちましたけれども、広島からは七〇〜八〇キロ離れた所ですがやはり体験者に囲まれて育ったという感じなのです。ですから、誰ということなくその人が体験したあるいは救護で惨状を見て来たとかいう人達に囲まれていますと、何か自分が原爆に触れて発言するということが非常におこがましいという気持ちで、詩は子供の頃からいつの間にか書いていましたけれども原爆のことを書いたことはありませんでした。ところが十二年前に神戸で大地震が起きまして、私の家は山寄りで震度六で幸い大したことはなかったのですが、震度七の下町の方の酷い惨状に、その近くに一度は住んでいたこともありますし、もう想いがとどめることができなくなって、「一部損壊なのになんでそんなに地震の詩を書くのか」と被害の大きい人達からは思われたりしたこともあったのですが、ともかくその時からずっと地震の詩を書き出しているうちにある時ポロっと原爆に触れることができたのです。その時になぜ触れられたかというのを思い出しますと、それまでは私にとって原爆といっても体験はしてない、どこまでもやはり第三者としてのあるいは政治の詩、あるいは権力者と庶民という、あるいは科学文明と文化とかいう、そういう二項対立の中でのどうしても体験してない者の感覚はそこからしか捉えられてなかったのが、地震を経験することによって命、誰もが持っている命の視点から初めて原爆を捉えることができて、地震の詩の中に原爆を触れることができました。
  今日お読みする「朝顔」は、そのあとに書いた二番目の原爆の詩です。

朝 顔

紐を渡せば 軒先まで
伸びていく朝顔
散水の滴りが葉に光っている
毎朝 五十も六十も花をつけ
触れると破れそうに薄いはなびら
びらん びらびらん 
その蔭から

いつものようにその人は出かけた

いつものように汗を拭きながら
いつもの空に
六千度ものまぶしいはなびらが開くなぞ
知るはずもなかった
破れそうに薄い皮膚があるなぞ
思いもしなかった

川が煮えること
肉が蒸発すること
魂がめくるめくこと なぞ
気づくはずもなかった

そうして帰ってきたのだ

捜す人の張り紙の中に 
写真の中に
名を呼ぶ声の消え入る先に
朝顔が燃えた 
あの家に

垂れ下がった皮膚の
赤いずるずる??
きょうは 四十三こ
桃色から藤 紫 青紫 紺
朝顔の冷たい色ばかりが燃える

朝の顔が いくつもいくつも
びらびら びらびら
   (『一八一人集』162頁)

大掛史子 ありがとうございました。じつは、校正が出ました時に江口さんのお隣の頁にわたくしの詩がありまして、江口さんの詩も一緒に校正させていただいたものですから、何と素晴らしいイメージの詩だろうかとその時から感心しておりました。やはり朝日新聞に取り上げられたので、なるほどと納得いたしました。

 次は葛原りょうさん、お願いいたします。
  葛原さんは最年少でこの詩集に参加されていらっしゃいます。一九七八年東京生まれ。現在上野の池之端にお住まいで、今日も自転車でここまで駆けつけてくださいました。詩集に『朝のワーク』。「衣」の同人でいらっしゃいます。NHKのラジオで原爆詩集が取り上げられました時にも朗読をなさいました。そのほかにもいろいろ朗読をラジオでなさっていらっしゃいます。

葛原りょう(くずはら りょう)
  皆さんこんにちは。私は今年初めて朗読会を、皆で声を出そうということで行動を起こしたのですけれども、広島の平和記念公園で朗読会をしました。まだ私は宣伝とかいろいろ皆さんに呼び掛けることができなかったのですが、それでも二十〜三十人の方が応えてくれて、この原爆詩集を持って峠三吉や原民喜を朗読したのです。広島のあの平和記念公園というのは許可を得なくてはいけなかったのですけれど、それがギリギリ許可が下りまして、行きました。そうしたらいろんな人が参加してくれて、長津さんも来てくれて、すごく嬉しかったです。こういうことをこれから始めていきたいと思っております。来年はもっとしっかりと呼び掛けて若い人にももちろん、……というか若い人もいないと私も寂しいので……。(笑)一人ということはないんですけどね。ただ、今回も港敦子さんというやはり若い詩人が一緒に頑張ろうと言ってくれて、それで二人で呼び掛けたような形になりました。そういう紹介はインターネットの港敦子さんのブログで随時流しておりますけれど、それもまだ不備でして、私自身もちゃんとホームページを立ち上げて宣伝を、ちゃんと声を出してやっていきたいと思っております。
  それで、今年は長崎まで行きまして、永井隆博士の如己堂とかいろんな所を見て回りました。長崎でも若い子がいると思いますし、学生さん達とこれからやはり痛みというか経験、負の経験ですけれども、それがこの島国に突然降り注がれたわけですけれども、それでもやはり痛みがあると思います。詩はそういう痛みを痛切に伝えることができる一つの有効な手段だと思っていますし、朗読をこれからも続けていきたいと思っています。というふうに自分がなぜ思ったかというと、私は祖母のお兄さん二人とも皆戦死しまして、一人はパールハーバー(真珠湾)で参加して珊瑚海でレキシントンに体当たりして死んで、もう一人は芸術家でして、ピアニストでもあったのですけれど作曲をやっていまして、同期に中田喜直さんがいましたけれど、そういう大伯父が死んでしまいましてね。下の方はもう嫌々ながら戦争に引っ張って行かれてそれで病死したという。もしその大伯父が生きていたとするならば、私という人間がポコッと後に生まれて音楽の話もできたと思うし、そこで自分もやはり身近に文学者というか芸術家がいたならばどれだけ今の自分の詩作に対して励ましになったのだろうかと思うと、やり切れない思いになりました。
  それで、祖母は半世紀黙っていました。お兄さんの話はできなかったので、もうほんとうに泣いていましたし、ピアノも聴くことができなかったそうです。でも数年前にやっと話を聞きまして、大伯父の作曲された曲も流しました第一回目の音楽会をやったのですが、そういうこともなかなか資料が無いものですから、作曲家の方はやはり作品があまり残されていない。でも、そういう活動もしているということも関わっていますが、私自身がとにかく詩を書く立場としてやはりホームページという有効な手段を使って声を出していきたいと思っています。
  「出口はどこだ」という詩を朗読します。

 出口はどこだ

沈黙させるな
言葉を
沈黙させるな
人間を
地球を

お菓子箱のように
ひゅるん と
それは降って来た
(何人かが見下ろして、何人かが見上げて)
エノラ・ゲイという名の
パンドラの
世にも奇妙なサンタクロース
真夏の歴史外れのサンタクロース
閃光の
そして
火球の
青空を煮立てさせた
あらゆる皮膚を音もなく
剥いでしまったあと
ブラック・レインという名の
ニガヨモギの夜は
夜というにはあまりにも
それは永遠の時間だったのだろうか
歴史外れの時間……

沈黙させるなぼくの口
沈黙させるな地球の緑、あのアオギリよ
あなたの口よ きみの……

 おおうい出口はどこだあ
    (おおうい……おおうういい……いい……)

 こだまがこだまを呼んで
  あわててマッチをするように
  シュッと火球をするのですか

だれも泣けなかった
永遠の時間が
底のないトンネルを
地球に
ぽかりと
掘ってしまったという理由で
   (『一八一人集』185頁)

 ホームページでも流しますので、またその時にお声掛けください。これからも毎年毎年行って、広島でやったらば長崎で。でも金が無いので。有馬先生のおっしゃったことすごく嬉しかったんですよ。外国でもやろうということも今はまだできないですけれども、それは何とか皆で力を合わせて海外に発信していきたいと本当に思っています。痛みを、日本の痛みをというか原爆の、地球の痛みを伝えていかなければいけないと思っております。ありがとうございました。(一同拍手)

大掛史子 ありがとうございました。皆さま、どうぞこの青年を支援してあげてください。

 次は下村和子さん、お願いいたします
  下村さんは兵庫県にお生まれになりまして、現在大阪市在住でいらっしゃいます。詩集に『縄文の森へ』『風の声』。詩誌「叢生」、文芸誌「原石」の編集発行人をしていらっしゃいます。「日本現代詩人会」「日本詩人クラブ」の会員でいらっしゃいます。

下村和子(しもむら かずこ)
  皆さんこんにちは。今日は朝出まして、大阪からやってまいりました。
  わたくしは広島の被爆者でもありませんし、長崎の被爆者でもありません。けれどもわたくしが思っていますのに、あの時あの時点で日本の国に住んでいた人、住んでいたものは、広い意味で全員被爆者ではないかと思っているのです。そういう意味でわたくしも「被爆者」と言って良いと思うんですね。むしろ私も被爆者であるという、そういう認識が大事なのではないかと思っています。そういう考えのもとでわたくしはずっと広島・長崎のことを考えてきました。そして峠三吉とか栗原さんなどの詩を朗読したりしてまいりました。今回そういう峠三吉などの詩と現代の詩人全部を包括した原爆詩集ができましたことを、とても良いことだと喜んでいます。
  今回読みます詩は、わたくしが長崎の祈念館にまいりましてそこで体験した気持ちをもとにして書いたものです。長崎には資料館という大きなのがあるのですけれども、そこには割合たくさんの人がいらっしゃるんですね。でも、そこから出ましてお向かいのところにもう一つの祈念館があるのですが、そちらの方にはほとんど誰もいないのです。実はわたくしがまいりました時も、もう広い館の中に私ひとりでした。逆にほんとうに何かその時に死者と一緒に語り合うというふうな体験をしました。

「こわれもの 注意」

水の胎内へ 水の奥へ
地下への階段を下りていく
誰も居ない海の底の路を歩いていく

青く光る深海の廻廊を ゆっくり歩いていく
苦しみの極を経て やっと流れついた水の館
ほてる皮膚を今も冷やしつづけて横たわる寝室
肉体を魔神に献上して 過酷な儀式を通過して
辿りついた人、人、人、人、人

名前という姿になって 刻みこまれた寂の館
長崎に作られた原爆死没者追悼祈念館
身の丈を忘れて 強い人類を目指した
爆風を受ければ 焼けただれてしまう
弱い身体を持った生きものであることを忘れてしまった罪を
連帯責任という下品な言葉で 受けてしまった犠牲者たち

「こわれもの 注意」
小包にぺたんと押された印のように
町中にポスターを貼っておかねばならない
「フラジャイル」「フラジャイル」
   (『一八一人集』124頁)

大掛史子 ありがとうございました。「私も被爆者」という認識、重く心に届きました。

 次は酒井力さん、お願いいたします。
  酒井さんは長野県にお生まれになりまして、現在佐久市に在住していらっしゃいます。詩集に『水の天体』『白い記憶』がございます。「日本詩人クラブ」の会員でいらっしゃいます。

酒井力(さかい つとむ)
  皆さんこんにちは。寒い所から出てまいりました。
  私の父は台湾で十年、衛生兵から医師、警察とかいろいろなことをやっていたのですが、小学校の高等科を出てそれから軍人になったわけであります。八十歳の時に若い医師達に向けて「医師会報」に自分の生き方を示したということであります。それをこのたび原爆詩ということで鈴木さんの方から是非書いてみないかということで勧められて、一つの作品にさせていただきました。

 白い記憶

八十歳を迎えようとするとき
父は地元の「医師会報」にと
自分の歩んだ道を
体験談を交え
口伝で私に書き記させた
戦時中に父が書いた
ガリ板刷りの戦時記録を
初めて目にしたのも
その時だった

父はどこに記憶を仕舞っていたのだろう
淀みなく正確に
日時まで入れて淡々と語り
私はそれを書き取っていく
母が時には顔をのぞかせ
口を挟んだりもしたが

昭和九年
父は予備役として台湾に渡る
中国での激戦から救出され
一度は帰国して後の応召だ
衛生兵から医師になった父の元へ
母は単身嫁いで行った
それから十年
広島と長崎への原爆投下
そして惨めな敗戦を迎える

しばらくは中国人を相手に
医療に携わっていた父だが
いよいよ帰国というとき
財産は没収され
米一升とわずかな所持金に
まだ幼い兄姉四人を連れ
引き揚げ者満載の貨物船に
父母はようやく乗船した

海は荒れ
苦しむ船酔いも
昭和二十一年四月二十八日
広島湾沖に一晩停泊しておさまる
DDT散布後
大竹港から上陸する

原爆投下から八ヶ月後の広島
広大な焼跡の一隅で
母は米を炊いた

「白いご飯の味は忘れない」
と語る老いた父の顔
国のために
一命を捧げんとした
一人の医師は
戦争の悲惨さと
生命への畏敬とが
気持ちの中で交錯し
思わず複雑な笑顔を浮かべる

敗戦の味を]みしめた家族
その時私は
母の胎内に宿され
臍の緒を通し
広島を感じていた
見えない目
聞こえない耳
動かない体のまま
わずかに心音だけを響かせ

生前父が低い口調で
(戦争だけは………)
と呟いた言葉は
かつて若いころに訪れた
原爆ドームの記憶と重なって
六十歳を過ぎた私に
いま 鮮明に蘇るのだ
    (『一八一人集 198〜199頁』)

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