詩 の 原 故 郷 を 求 め て
株式会社コールサック社のグラデーション
『原爆詩一八一人集』出版記念会・全記録
株式会社コールサック社の役立つスペーサー
株式会社コールサック社の役立つスペーサー

  大掛史子 ありがとうございました。最新詩集の『白い記憶』がいま出来立てのほやほやで会場にありますので、後ほどお手にとってご覧くださいませ。
  次は伊藤眞理子さん、お願いいたします。
  伊藤さんは福岡県生まれで現在は東京都墨田区にご在住ですが、広島にずっと長くお住まいでいらっしゃいまして、最近東京の方に移っていらっしゃいました。『伊藤眞理子詩集』、詩画集『あしたきらきらT・U』がございます。長年「火皿」の編集発行人をされていらっしゃいました。

伊藤眞理子(いとう まりこ)
  わたくしは敗戦の時にはまだ小倉に住んでおりました。出生地が福岡県小倉市(現・北九州市)で国民学校一年生で敗戦だったのですけれど、いろいろ戦後食糧事情や何かが悪く、母の郷里の鹿児島県大口市という所に引き取られ、ずっと学校生活はお世話になって卒業いたしました。ですから今日、喜界島の話が出た時に、「あ、同級生がいたな!」と思ったりしました。
  それで結局小倉で一年生ですから、長崎に落ちた爆弾が、雲が小倉の上にかかっていなかったら、わたくしは死んでいたんですね。小倉の中心地ですから。兵器廠のすぐ近くでしたから。だけど、実は小倉が第一目標だったけど第二目標の長崎に雲のせいで落とされたのだということを知ったのは、成人してからでした。やはりそのことと、その後一九六二年から広島市に住みましたけれど、それはわたくしの母の妹の叔母が、夫が原爆に遭って原爆症で亡くなって一人息子がいましたので、それを育てるのを手伝うといいましょうか、そんなことで他の妹の叔母達、結局三人叔母が広島におりまして、そういう引っ掛かりでわたくしもとうとう広島に引っ掛かってしまったのですけれど。
  それで、三人の叔母達の連れ合いは皆被爆者です。そういうこともあってか何かわたくしはそのことにはあまり拘らなかったのですけれど、「広島に住んでいる」ということはどうしても避けて通れないことなのですね。原爆とかその他もろもろ、もちろん水爆も福竜丸もありましたし。そのことを詩に書きますと「伊藤さんは原爆にも遭(お)うとらんくせに、広島を書くけぇのお。あれを書かにゃあええんじゃが」と、(笑)こう言われながら広島に約四十年暮らしました。家庭の事情で東京の下町墨田区に住んで今度の十二月のクリスマスが来ますとちょうど約三年になります。大きな「現代詩人会」にも「詩人クラブ」にもどこにも属さないで(笑)ぽかんとしておりまして、「火皿」という詩の雑誌に四十三年くらい関わったのではないでしょうか。そんなこんなで二十年くらい編集をしておりました。ただ事務能力がちょっとあったらしくいろんなことを押しつけられて、それもボランティアと思って、今頃「ボランティア」という言葉がありますがその頃は何か縁の下の力持ちでちょっとお手伝いをしてきました。
  今日は皆さんのお手許にある『一八一人集』ではない詩を読みたいと思います。というのは、この五月に創刊されました「タルタ」という雑誌、千木さんという発行者に(今日は)来ていただいていますけれど、柳生じゅん子さんに誘われまして、その「タルタ」という六人での詩の雑誌が創刊されまして、その創刊号に載せた詩です。この『一八一人集』の時に鈴木さんにこれを出したいと言いましたら、「丸山眞男なんて、翻訳するのだから外国の人によく分らないからこれはやめた方がいい」とか言われまして(笑)、結局『一八一人集』にはボツになっているのですが。一番新しい詩で、またやはりわたくしにしてはこのことは言っておきたかったという作品ですので、聴いてください。タイトルは「長い黙祷」。副題に「丸山眞男について」││政治学者の丸山眞男先生です。

 長い黙祷
    ││丸山眞男について

 あの一九四五年八月六日
  あなたは
  軍都 廣島宇品の暁部隊情報班にいた
  営庭での朝礼中 ウラニウム爆弾炸裂
  鉄塔の陰で 直接熱線を浴びなかったという
  八月十五日 全員でポツダム宣言受諾を聴く
  それまでの九日間
  ボロ布の塊になったニンゲンを
  炭化した死体を
  叫ぶ人を 呻く人を
  どれだけ見たか 運んだか 介助したか
  九月十二日召集解除
  あなたは
  自分の被爆を語らなかった

 若き学徒の日
  思想犯として検挙された栄光は
  学士ながら二度目の応召
  二等兵という戦闘員であった

 南方の島々で 海で
  大陸で ジャングルで
  骨を拾われることもなく戦死した兵士
  非戦闘員 無辜の民
  戦争が終ったとしても
  辛くも生き残った義務としての赤子が
  どうして 国家に償いを求められよう
  殺すか 殺されるか
  敵の原子爆弾にも生かされたいのち
  祖国の無責任を言説するとき
  戦闘員だったあなたは
  その責任を甘受するほかなかったのだ

 長い沈黙は
  戦争による死者たちへの
  長い黙祷ではなかったか

 敗戦の日から五十一年目の八月十五日
  兵舎の息子を案じながら旅立った母と同じ日
  あなたは 旅立った
  生涯 原爆被爆者健康手帳を
  申請しなかった

大掛史子 素晴らしい詩を、ほんとうにありがとうございました。

 次は鈴木文子さん、お願いいたします。
  鈴木さんは千葉県生まれで、現在我孫子市に在住していらっしゃいます。『鈴木文子詩集』『夢』ほか多数ございます。「炎樹」の編集長をしていらっしゃいまして、「詩人会議」の会員、「日本現代詩人会」会員でもいらっしゃいます。

鈴木文子(すずき ふみこ)
  「お前らよそもんに、何がわかる!」││この言葉は、今から三十七年前になりますけれども私が一人の被爆者から投げつけられた言葉です。
  一九七〇年、当時わたくしは労働組合の役員をしておりました。それで地区労の代表として広島の原水爆禁止世界大会に参加したのです。その頃は広島といえば平和公園の近くがまだすごく乱れておりまして、トタン屋根に石が載っていてバラックの家が大変目立っておりました。そういう時期に参加したのです。それで、地区労の代表で参加しましたから帰ったらレポートを出さないといけないので、一緒に行きました仲間と「じゃあ、被爆者にインタビューに行こう」ということになりまして、夜、平和公園にテープレコーダーを下げてインタビューに出て行きました。もう元安川の夕凪がひどくて、とっても暑い夜でした。一人の被爆者の方が石の所にお座りになっていましたのでマイクを向けたその途端に、先ほどの言葉が返ってきたのです。
  私は帰って来るバスの車中で、私の中に被爆者に対する驕りとか高ぶりとか野次馬根性がなかったのか……ずっと考えながら帰って来ました。帰ってきて私は、すぐに何篇かの詩を書きました。その時の一篇を今日は読ませていただきます。

 風化

 まっ黒なみかげ石に
  圧縮された白骨の文字が
  原爆で芽ぶいた
  無残な美を語っている
  補強され
  叫びの口をふさがれてしまったドーム
  二十数万の呻きを
  ぬりつぶしたような大通り
  私は多くの仲間達と
  広島の平和公園を歩いていた

 肉体の一部が
  ケロイドの細胞が
  アルコールびんにつかっていた
  魂をはぎとられた根毛は
  ふたを押し上げることもできず
  こそこそと
  犯罪者のような触角を
  二十五年間さらけだしてきた
  夕日が錆びた鉄のように
  ポロポロと沈む公園に私はいた

 新らしい時間に
  踏みつぶされている広島
  生き残った者は
  貝のように口をふさぎ
  着飾った人々が
  言葉に化粧して
  ぞろぞろ歩いていた広島
  私も
  確かにその中の一人にちがいないが
  身をそぎとられるような痛さが
  とがった神経に
  腰を下していたのだ

 今日も原爆の影をひきつれ
  一画に区切られた
  あの日の広島の一日が
  ふらふらと起ち上がるのを
  私は 息苦しく見ている

 という詩を書きました。私の広島は、原爆に関わることといえば三十七年前の先ほど申し上げた被爆者の、今はもうお亡くなりになっているのではないでしょうか、その方の一言から出発して私の中で今も息づいております。ありがとうございました。

大掛史子 鈴木さん、ありがとうございました。貴重なお話と詩の朗読でございました。
  先ほどの伊藤さんの詩といい、今の鈴木さんの詩といい、『一八一人集』以外にもまだまだ素晴らしい原爆詩がたくさんあるということを実感いたしました。

 次は秋山泰則さん、お願いいたします。
  秋山さんは東京のお生まれだったのですが松本市に長くお住まいで、現在松本市在住でいらっしゃいます。『民衆の記憶』『流砂』という詩集がおありで、「松本詩集」の編集発行人をしていらっしゃいます。

秋山泰則(あきやま やすのり)
  長野県の松本市からまいりました。ただ今ご紹介いただきましたように、昭和二十年に東京からただ今住んでおります松本市に疎開をいたしました。わたくしの家の真ん前に聳えております北アルプスの魅力に取りつかれそのままずっと今まで暮らしておりますので、たぶんここで生涯を閉じるのではないかと思っております。住んでみれば松本市という所は非常に良い所でして、わたくしはこの街が大好きです。それでこの街で何かご恩返しをしたいと思いまして、政治に参画をいたしました。
  松本市という所は、この間の戦争では爆弾が一つも落ちなかったという珍しい都市です。B二九らしい物が二度ほど通過したということを聞きましたが、わたくしが疎開してからは飛行機というものは敗戦の日のだいぶ後までずっと飛んだことがございません。そのような所でしたけれども、やはり軍事産業に関係する工場がありまして、朝鮮半島から連行されて来て強制労働をさせられたという施設がございます。
  十数年前にやはりこの戦争をどこかで伝えなければならないということを考えまして、この強制労働に従事させられた軍需産業の地下工場の跡を保存するということを松本市として決定していただくとか、あるいは、小学生・中学生の子供達を広島の原爆忌というものに参加をさせるというようなことも市の政策方針として決定をさせました。そんなことがわたくしにできる戦争というものに対しての何かであるのかなと思いました。
  原爆につきましてもいろいろの考えがありまして、若い頃に比治山という所に半年ばかり住みましてあちこちを歩いたりお話を聞いたりいたしましたけれど、わたくしにとって戦争というものもそうですが原爆というものはやはり重い課題でございまして、これを詩にするということはとても難しくできませんでした。言葉にすると「叫び」とか「呻き」とかそのようなものになってしまうことがほとんどでして、未だに原爆というものを詩にするということは非常に難しい作業であるとわたくし自身は思っております。
  ここで「原爆の痕」という詩を書きましたけれども、これもほんとうに原爆というものに即しているものかどうかということは、書きながらもわたくし自身疑問に思っておりました。先ほど下村さんのお話の中に「私達は全部が被爆者だ」というお言葉がございましたが、わたくし自身もこの戦争では日本人である限りずっと皆が遺族なのではないかと思っております。
  そのくらいにいたしまして、「遺族」ということと、それからもう一つはここに「戦死」という原爆とは関係のない詩を載せていただきましたけれども、例えば原爆による放射能の後遺症という形でいろいろな苦しみを経験なさりながら亡くなっていく方、そういうことを考えますと、例えば戦争という中で軍隊に駆り出されその重労働のために肺病になって帰って来て復員後に亡くなったということを何人もわたくしも見聞きしておりますが、そういうものもやはり「後遺症」という名前で呼ぶのなら、放射能で苦しんで亡くなった方とも同じではないかと、そんなふうに思ってこれを載せていただきました。それでは、朗読させていただきます。

原爆の痕

人間を殺さなかった銃弾が壁を大きく抉っている
人間を殺した原爆が石段に人間を焼き付けた
影になった人間は焼き付けられて石段に座っている
人間を殺さなかった銃弾と人間を殺さなかった銃弾の間は
人間を殺した銃弾で埋まっている

人間を殺さなかった核実験は殺せる人間の数を増やし
人間を殺した原爆は爆発で殺せなかった人間を
六十余年かけて なお 殺し続けている
人間を殺し続ける放射能は人間を恐怖で支配する兵器だ

戦 死

従兄の肺病は 軍隊で無理をしたせいだといった
街の医者へ行く日には
私の家へ寄っていった
家の中へは入らず、縁側に腰をかけて
着物の中から 自分の茶碗をだした
母がその茶碗に白湯を注ぐ
従兄はそれをゆっくりと飲む
私が近付くと 近付いた分だけ離れた
母が近付いても やはり離れた

離れた分が従兄の愛で 離れた分の寂しさをこらえた事が
私達の愛であった

ほどなくして従兄は死んだ
少年兵の戦死であった
屍は国旗に包まれることもなく
敬礼して見送るものもなく 焼かれた

生きている限り私達は従兄を愛し
愛し続けなければならない
嗚咽の中から母の声が私の体に入ってきた
   (『一八一人集』147頁)

大掛史子 お心のこもったご朗読、大変ありがとうございました。秋山さんは幼い頃東京大空襲にも遭われて、そのことを書かれた素晴らしい詩が詩集の中にもございます。

滝和子(たき かずこ)
  ……今ちょっと胸がいっぱいになりまして。鈴木さんの詩を聴いた時に何かすごく涙が出てきまして、今また秋山さんの朗読を聴いて胸の中がいっぱいになってしまいまして、何かこんな時に朗読ってできるのかなと思いながら話しています。スピーチがあるということを知りませんで、詩を読むだけだったらと思って、私はこんなふうにたくさんの詩人がいる所で詩を読むことが初めてですから、ちょっと緊張しています。
  私がふだんやっていることは、子供達に絵本を読むことをしていまして、いつも今のままで子供達はいいのかなあとか将来少し不安だなあと思いながらいます。今回原爆詩のことで鈴木さんからお話を頂いた時に、「あっ、じゃあ書いてみよう」などと本当に簡単に受けたのに結局書けなくて「できません」と言ったらば、たまたまこういう詩集(『きこえてくるよ』)を出したばかりのものですから、その中にある「誕生日は」という詩が良いのではないかと鈴木さんに選んでいただき、今回の参加になりました。自分自身は戦後生まれで「学校は嫌いでも新聞と本だけ読むといいよ」と父に言われて育ったので本だけは、すごく戦争の本を読んでいたのですが、ある時期になった時にいつも疑問があって、周りの大人に言うと応えてもらえないというかうるさいというか、それで一人で勝手に本を読むようになってきたのですけれども、今回のこの『一八一人集』を読んでいた時に、ちゃんと向き合っている大人というか、自分もいい歳なのですけれども、そういう人達がいるということがすごく私は嬉しいと思いました。
  それで、鈴木さんが話してくれた時に、ああ、私も原爆に遭った人に一度会ったなというのを思い出しました。小学生くらいの時に「被爆者手帳」って初めて見ました。手帳を持った人が何か小間物を持って売りに見えていて、その時我が家もとても貧乏で借家暮らしで、入口の上がり端で母が応対して泣いていたのを私は鈴木さんの詩とお話で思い出しました。
  では、すごく緊張しているし胸がいっぱいなので読むのにちょっとあれですが、「誕生日は」を読みます。これはずっと前に子供が言ったことをそのままメモをしたというか書いただけの詩なのですが。

誕生日は

八月が近づくと
  広島・長崎 を思う
小学生だった二男が
ある日突然
「ボクの誕生日に
    原爆が落ちたんだって」
家に着くより早く
カバンを背負ったまま
言葉を投げるように
私に向かって来た
「赤飯なんて
    ケーキもいいや‥」

その年から
八月六日の祝いは
二週間おくれ‥
長男の生まれた
八月二十日にふたりぶん
ひとつのケーキを分け合いながら
この国にも 戦争があった と
振り返る日になった

 リトルボーイ リトルボーイ
  広島の空‥
     (『一八一人集』216頁)

大掛史子 ありがとうございました。初めてのスピーチ・朗読、大変心に響きました。

 次は安永圭子さん、お願いいたします。
  安永さんは山梨県生まれ、東京の府中市にお住まいでいらっしゃいます。詩集に『いのちいっぱい咲くからに』『七月六日の赤い空』がございます。「飛天」「櫟」の同人、「日本現代詩人会」会員でいらっしゃいます。

安永圭子(やすなが けいこ)
  戦争が終わってずいぶん経ち世の中が平和になりましてから、長崎とか広島の原爆記念館を何度か訪れました。その時いつも私は体の外側から手を内臓にねじ込まれたような痛みを感じまして、それで苦しくて蹲ってしまうのです。それは、私が小学生の時に甲府で空襲に遭いました。ちょうど七月六日ですから、広島に原爆が落とされる一か月前なのですね。その時にとても怖い思いをしまして、その記憶が重なってしまいまして、それで苦しい思いをするのです。
  ちょうど十歳でした。父が仕事で遅く帰って来ましたので逃げ遅れまして。熟睡しており気が付きました時は隣の軍需工場にものすごい音で爆弾が落ちて燃え上っておりました。びっくりしてその時にやっと家中が起きたわけです。もう表通りは火の海でして、音をたてて商店街が燃えておりました。もちろん防空壕には誰一人おりません。もぬけの殻でした。それでも「この火を突っ切らなければ生き延びられない」という父の声で、防空壕の中の莚を剥いで防火用水に浸しまして頭から被り、その火の中をくぐりながらあちらこちらと逃げ回り、やっとの思いで土手の方まで逃げて行くことができました。
  その夜の怖さとかそれから翌日の悲惨な光景は記憶の中にいつまでも消えないで残っておりまして、夢にも見ますし夏になれば思い出します。もう弟も亡くしておりますので、ああこの思いはいつになったら消えるのだろう、忘れてしまいたいと時々思っておりました。でも、どんなに長い年月が過ぎましても忘れるものではないんですね。
  それで息子が同じくらいの歳になりました時に、ああこんな思いをもう息子にはさせたくない、戦争の犠牲者にはしたくない、息子に銃なんか持たせたくないと思うようになりました。それにはどうしたらいいかと真剣に考えまして、微力ですし弱い人間ですしできることはあまり無いけれども、でも、常に世の中の風に敏感に、国の方向がどのように動いているかということに敏感であるように心掛けてきました。デモにも参加しましたり、チラシを配ったり、いろいろ私なりにできることをしてまいりましたが、だいぶ歳をとりましてからふっと「あっ、もう一つできることがある」と思いました。それは私の空襲体験を詩集として出して、それで未来を生きていきます若い人や子供達に語り部のように伝えたいと思うようになったのです。それが私には今できることではないかと思い付きまして、最近詩集を出しました。それは『七月六日の赤い空』です。その中に原爆記念館に行きました時に空襲の体験と重なった思いを詩に書きましたのが載っておりますので、それを今日は読ませていただきます。忘れたい、忘れたい、と思っていましたけれど、このことは絶対に忘れてはいけないということなのですね、もう原爆のことであろうと。
  それから、日本全国空襲を受けた所を私は調べまして、地図に赤丸を付けていったんですね。そうしましたら、もう真っ赤に埋まってしまうくらい日本全国空襲を受けているのです。ですからそういうことを、まるで日本列島が爆撃の炎で燃えているような感じに印をつけてあとを見ました時に、絶対に忘れてはいけないのだ、皆絶対に風化させてはいけない、四分の三くらいの人は戦争を知らないそうですから、あとの今生き残っている四分の一の方々が一生懸命語り伝えていかなければいけないのではないかなどと思っております。
  それでは、その「忘れてはいけない」という詩を読ませていただきます。

忘れてはいけない

  滅茶苦茶ノ爛レタ顔ノ
   ムクンダ唇カラ洩レテ来タ声ハ
   「助ケテ下サイ」
   靜カナ言葉 コレガ人間ナノデス
   人間ノ顔ナノデス
        (広島原爆記念館掲示パネル・原民喜『夏の花』より)

あの日から五十年以上の歳月が過ぎた
広島の原爆記念館でその詩を
思わず声を出して読みあげた瞬間
小さなパネルの中から
血濡れた手がぬっと突き出て来た

うめき声も聞こえて来る

忘れたい
思い出したくない
日常は時の地底に鎮まっていて
起きあがってくることはないのに
悪夢のような光景がまざまざと呼び醒まされた
鉄の雨で破壊され火にあぶられた
恐ろしい顔 火中からの断末魔の悲鳴

郷里甲府での記憶がかさなる
十歳だった
空襲の真っ只中を線路づたいに逃げた
棒切れのような黒いかたまりに躓く
老婆が焼け爛れた顔をあげ
どろどろの手をのばして
モンペの足首をつかんだ
「助けて! 水を 水を!」
その手を声を
払い捨て父の後を追って走った

昭和二十年七月六日
B 爆撃機一三九機甲府盆地空襲
投下焼夷弾約九七〇トン 全市の七四%焦土と化す
焼き殺された非戦闘市民一、一二七人
     (『一八一人集』266頁)

大掛史子 ありがとうございました。安永さんは、ご本名の渡辺圭子さんというお名前で画家としても活躍されていらっしゃる方です。幻想的な美しい絵もお書きになられて、多彩な才能をお持ちの方でいらっしゃいます。

 次はうおずみ千尋さん、お願いいたします。うおずみさんは視覚障害者でいらっしゃいますので介添えの方、お願いいたします。
  福島県にお生まれになりまして、現在金沢市にご在住でいらっしゃいます。詩集に『凌霄花』『牡丹雪幻想』があります。「衣」の同人、そして「日本現代詩人会」の会員でいらっしゃいます。

うおずみ千尋(うおずみ ちひろ)
  皆さまこんにちは。はじめまして。今日はこの素晴らしい出版記念会に参加できまして、ほんとうに嬉しく思っております。金沢から東京に出るのはわたくしにとってはとても大変なことだったのですけれど、ほんとうに来て良かった。
  わたくしは今年の四月にコールサック社から『牡丹雪幻想』という詩集を出版した者でございます。たぶんここにいらっしゃる皆さまのお手許には届いていると思うのですけれども。今日総合司会をなさっていらっしゃる山本十四尾様とそれからコールサックの鈴木比佐雄様、このお二人とのご縁によりましてとても素敵な装幀の本をつくっていただきました。その詩集づくりがきっかけになりまして、わたくしは今回この『原爆詩一八一人集』に参加することになったのです。
  ですけれども、わたくしはここに載せていただくためにわざわざ原爆の詩を書いたわけではございませんで、今から十二年前、ちょうど被爆五十周年の年にわたくしは、ずっと気になっておりました詩を書いている者として一度も広島に行ったことがないことをとても気にしておりましたので、「五十周年」ということを意識して広島に出かけました。その時に書いた作品が今から朗誦させていただきます「八月 蝉しぐれ」という詩でございます。わたくしは、個人的なことで恐縮ですが、長いこと患っておりました緑内障という眼の病気のためについにその後視覚を失ってしまいました。完全に、見えないのですよ。いまここにいらっしゃる皆さまのお姿、残念ながら全く拝見できておりません。そんなわけで朗読は無理ですので、覚えてまいりました。どうぞ聴いてください。

八月 蝉しぐれ
  ?被爆五○周年に?

聴こえているでしょうか?
あなたの 耳にも
八月の目眩めく陽射しのなかで
樹々を揺さぶって降りしきる
蝉の声

五○年
この地を覆い続けて来た
重い重い祈りを押し上げ
蝉は
今年も また
人類の罪と哀しみの震えのように
地中深く闇の裂け目から夥しく這い出して
あの
一瞬の閃光を見極めようと
天に向かって声を振り絞っているのでしょうか

被爆
敗戦五○周年
広島
この夏
鳴き続けて止まないニしぐれの下で
わたしは今
魂の叫びを聴いているのです
熱射の中 この土に溶けて沁みて行った無数の命の
いま尚
曳いて呻き続けているその痛みの
永遠に塞がらない
焼け爛れた空洞を
烈しく凝視めているのです
  (『一八一人集』114頁)

大掛史子 ありがとうございました。心の眼で読まれた素晴らしいご朗読、感動いたしました。

 次は千葉龍さん、お願いいたします。
  千葉さんは石川県生まれで、金沢市にご在住でいらっしゃいます。『炎群はわが魂を包み』『死を創るまで』という詩集がございます。「金澤文學」の主宰をしていらっしゃいます。「新・現代詩」のご同人でいらっしゃいます。「日本現代詩人会」「日本詩人クラブ」の会員でもいらっしゃいます。

千葉龍(ちば りょう)
  金沢からまいりました。今日は詩を朗読いたしません。たまたま今日頂いた資料(冊子「『原爆詩一八一人集』メディア紹介記事一覧」)を見て、この中にわたくしの毎日新聞に書いたコラムがあります。これを朗読させてください。一二頁です。ここに、わたくしが毎日新聞に月二回書いているコラムがございます。

 《思い込みもあるだろうが、ぼくの十二歳のときから六十二年間の盛夏八月。いわゆる八・六/八・九/八・一五の表記で記憶される三日間で雨の日はなかった。広島のウラン、長崎のプルトニウム型原爆は共に空襲警報解除後に突然、ふらふらっと現れた一機のB二九によって投下され、二つの都市が壊滅する。数えきれぬ市民を殺し、重症者と後遺症で苦しむこの世の地獄を今に続けさせている。
  あの灼熱の夏、八月十五日。日本の全面降伏による終戦…。十二歳の少年はその月の竟りに三十四歳の母を孤り送った。長かった十五年戦争のトンネルをくぐりぬけた。
  梅雨明けの一日から連続真夏日・猛暑のこの夏、八・六にアンソロジー『原爆詩一八一人集』(長津功三良ら編・コールサック社刊)が世に出た。わが親友の詩人で原爆をテーマに精魂の詩を書きつづける長津(広島生まれで山口の住)を詩人の山本十四尾(茨城)、評論家の鈴木比佐雄(千葉)が扶(たすけ)ての所産だ。
  八月四日付毎日新聞の「土曜解説」(全国版)に広岩近広専門編集委員は「原爆芸術文化/地味な継承に希望の灯」と全面スペースの規模で〈体験しないものが去っていくものたちからバトンを受け取ってその惨を、非人道性を詩というかたちで表し、さらに次の世代へ…〉と「被爆六〇年」を経ての収穫を、優れたジャーナリストの確かな目で称揚した。西日本、中国、下野、朝日…と全国の日刊各紙にも報道・解説される。ジャーナリズム死なずがうれしかった。
  ふだん詩に縁の薄い人でも、峠三吉、栗原貞子、原民喜ら世に膾炙された原爆詩人に加え、湯川秀樹博士や小野十三郎、石川県ゆかりの永瀬清子=以上故人。現役詩界の山顛に立つ浜田知章(石川県出身)、新川和江、日高てる、西岡光秋ら数多い有名詩人に再めて瞠目するはずだ。手前味噌ながら小生も新作「ヒロシマ・ナガサキの落穂」で驥尾に。
  いま、世界に向けて英訳出版も進んでいる。暑い熱い夏にこそせめて書店の広い読みから始めてほしい。  (千葉龍)》
  (「文化サロン」=毎日新聞北陸総局・二〇〇七年八月二十四日付)

大掛史子 力強い論文をお読みいただきまして、ありがとうございました。

株式会社コールサック社の役立つスペーサー
株式会社コールサック社の役立つスペーサー


プライバシーポリシー | リンク | サイトマップ | ご注文について
株式会社コールサック社
〒173-0004 東京都板橋区板橋2-63-4-509 TEL.03-5944-3258 FAX.03-5944-3238
Copyright2006 (C) COALSACK All right Reserved.