次は日高のぼるさん、よろしくお願いいたします。
日高さんは、原水協の重い立場の方でいらっしゃいます。北海道にお生まれになり、現在埼玉県上尾市にご在住でいらっしゃいます。詩集に『緑色のマフラー』『どめひこ』があります。「梢」「いのちの籠」の同人でいらっしゃいます。よろしくお願いいたします。
日高のぼる(ひだか のぼる) こんにちは。二四四頁に掲載させていただいた「セミ」を朗読します。
セミ??校歌断章
うす曇りの空の木の下を歩く
むし暑い空気かきまわすように
セミが鳴きしきっている
広島平和公園
幹には抜け殻がいくつもぶらさがっている
木の表面をなぞるように見上げていた
ちょうど目の高さの〈抜け殻〉に
足を止めた
近づいて目をこらしそっと触れてみる
少し背が割れていたが
そこまで昇り羽化をやめたのか
サナギのまま息絶えていた
八月六日 元安川のそばで
家の取り壊し作業を開始した少女たち
ひとり残らず灼かれた
孵らなかったセミは
およそ七年も土のなかで暮らし
生をつなげるため羽をひろげ
ひととき華やかに飛び回る
その晴れやかな姿を
なぜ見せなかったのか
大火傷をおった少女たちは満潮の川にのがれ
先生を中心に輪をつくり
校歌を歌い励ましあいながらも
力つきて流されていった
そのセミを見上げるところにある
広島市立高等女学校の慰霊碑
建物疎開に従事中の一、二年生と職員
六七六人全員が死亡
文の林に分け入りし乙女われらは
朝夕に教えの御言
河面を流れていったその歌声を残し
鉢巻きにモンペ姿で灼かれ
殺された少女たち
二葉の山の松の如く緑の色も常盤なる
操守りて永久に
セミの鳴く声にのせ
サナギの殻に閉じ込められたまま
ふたたび眠りにつく
うすい緑色の羽にくるまれた
少女の
透明なからだ
*…広島市立高等女学校(当時)校歌の一節
(『一八一人集』244?頁245)
長津功三良 いま日高さんに読んでいただいた「広島市立高等女学校」ですが、後に新制高校になりまして、私の母校です。
大掛史子 ありがとうございました。
順調に進んでまいりましていよいよ最後のお一人、遠山信男さんにお願いいたします。トリに相応しい大物詩人でいらっしゃいます。
遠山さんは一九二一年岩手県生まれ、八十六歳でいらっしゃいます。ほんとうにもう多彩な活躍をなさっていらっしゃる方です。佐倉市に在住していらっしゃいます。『釜石風景論』『詩の暗唱について』の著書がございます。「詩人会議」の同人、「日本現代詩人会」「日本詩人クラブ」の会員でいらっしゃいます。後ほど懇親会でたぶん、タップなどもご披露なさるのではないかと期待しております。よろしくお願いいたします。
遠山信男(とおやま のぶお)
私は非常に暗唱に拘っているわけですけれど、「九条の会」が出る二カ月前の二〇〇四年五月三日の憲法記念日に、私は単独で詩人会議の一会員パワーという形で津田沼駅前で「憲法九条は日本の宝。世界の、地球の宝」というスローガンを看板に書いてパフォーマンスをやったことがあります。
やはりいろいろ考えてみますと、例えばその街頭パフォーマンスをさらに定着した発展した形で、あるいは「吟遊詩人」という言葉は日本には無いようですけど、吟詠詩人的なタイプの庶民運動をやるような、街頭でそういう詩の朗読でも暗唱でも良いわけですが、そういうのがパフォーマンスとして可能ではないだろうかと思います。
例えば私の場合、津田沼駅前で二回ほどやった経験なのですが、京成線の臼井駅で定着的にやるということが考えられる。その場合に私としては英文の対訳がある峠三吉の有名な『原爆詩集』をテキストにして、それから小・中学生の原爆時の詩集がありますね? これが素晴らしいんですね。やはりこれは朗読でもいいし暗唱でもいいわけですが、そういう街頭パフォーマンス、詩の署名運動をやる人達もいるわけですけれど、そういうふうな場で街頭パフォーマンスとしてそういう詩の行動の形式を創り出せないだろうかと思っております。私もこれから何とかしてそういうケースを作っていきたいと思っております。
急に朗読するように言われましたので、練習不足なのでちょっとテキストを見ながらということになりますが……。
詩もまた行動します
かがやく青い地球のために
私は私という核をもつ地球のそれなりの内部
地球は内部の私からみえる母体天体
かつて宇宙飛行士ガガーリンが「地球は青かった」といったその地球
私は地球のそれなりの内部のことのように地球を生きる
私のことのいのちのすがたでせっせと生きる
地球のいきおいの そのかけがえない一つのはず
と自分にいいきかせながらの一心不乱
でもね
とんでもなくいやなことしんぱいなこと
私のなかの核は
パスカルの あの「考える葦」にも似たそよぎのなかで
ひたすらに詩をもとめる核なんだけど
核は核でも“恐怖の均衝”の抑止力なる名のもとに
母胎天体の地球を死の渕にぶちこむほどの量の核 熱核
大量殺戮兵器の核が
アメリカ ユーラシア両大陸の大(小)国間にひしめいているんだとはねえ
けれどそういうなかで詩は無口であっていいはずないよねえ
地球よ
母なる地球よ
わたしたちぼくらおれたちわれらの地球よ!
とね
詩もまた行動します
地球の地平から核兵器の一切を廃絶せよ!
と ね!
かがやく青い地球のために
かがやく人間いきものたちすべてのために
核兵器をなくせ!
(『一八一人集』223頁)
暗唱より朗読の方が良いようですね!(笑・一同拍手)
大掛史子 遠山さん、ありがとうございました。これからもますますお元気で一層のご活躍をなさいますように。
滞りなくスピーチ・朗読が終わりました。大変拙い司会で失礼いたしました。ありがとうございました。(一同拍手)
第三部 翻訳者のスピーチ
山本十四尾 第三部は翻訳者の立場のスピーチですが、時間が食い込んでおりますのでご理解のうえご協力の程お願いいたします。それでは郡山さん、お願いいたします。
司会・郡山直(こおりやま なおし) この詩集を分担した最初のほうから順番でいきたいと思います。私の話は終わりましたから、私の次の部分を担当した人は水崎野里子さんです。
水崎さんは早稲田大学の英文科を出られて、もう詩の方面で非常に活躍しています。バイリンガルの詩集、ご自身の英語の短歌集があります。
水崎野里子(みずさき のりこ)
実は、三日前にアメリカから帰ってまいりました。アメリカでは短歌や詩などを英語と日本語で朗読してまいりまして、翻訳者会議でございました。
ひとことで申し上げますと、「感謝」のひとことでございます。翻訳者というのは影の力持ちということがございますが、皆さんの翻訳をさせていただいておりまして一人ひとりの方の魂に触れられて、それを英語に直していく喜びということ。
それで、世界詩人会議(WCP)という世界的な詩人の集まりがありますが、早くも「早く出せ」というお達しが来ております。やはりこれからは日本語と同時に英語でもどんどん日本の詩を発信していくお手伝いをさせていただきたいと私は思っております。
それだけなのですが、それだけではちょっと舌足らずでございますので、一つわたくしの作品を読ませていただきます。「作品」と言ってはいけないけど、翻訳者会議に出ましたらやはり翻訳も詩と同じクリエーションでなければいけないと言われてまいりまして、「はい」ということで少し頑張っていきます。
ジャック・ゴーシュロンJacques Gaucheronというフランスの詩人です。大島博光様という方がすでにフランス語から日本語に訳されております。長いので後半を読ませていただきます。
UNDER THE STAR OF HIROSHIMA
"Armand, I have to write to you now
That I will not be able to come back to you again.
Because of cancer or something worse.
My skin peels off and flies away
Like a robe fluttering in the wind."
"Doctor, blow me your breaths, Doctor.
Days pass away from a long expectation.
I cannot understand at all this, my role.
What is happening to me?
This drama is written in the color of blood."
In the next scene what will happen?
I don't know. Nobody knows.
To read this tragedy
To see through the mystery and the secret
I must use a microscope.
"Sitting before a mirror, I comb my hair.
The color of my hair flies away from me,
Like smoke blown away by the wind.
My hair has turned white."
"Armand, about beauty, about youth,
What should I think of them now?"
"This is a strange role, Doctor,
I am acting slowly my venture
To give you time.
Inside me a graceful orchid will start growing."
Midori, Midori,
It is always dark, and in the midst of the night
In the drama of blood
There is nothing but the endless dark night.
"In the night on a hill where cherry blossoms are in bloom
I will dance under the moon in May.
How pleasant it will be!"
The hands of my lover are as the caresses of a fan.
His kiss is a gentle rain which falls on my flowers.
I will give birth to the child I have dreamed of.
He will resemble me.
He will smile like a cherry blossom
He will open his eyes like pearls
Toward the moon on my breasts.
He will resemble me.
Doctor, please revive me.
Inside me
A terrible death has settled
More terrible than the god of death.
Each of my bones is an anvil from hell.
I am fearful to give birth to one who will be horrified.
Among dead birds, a burning stream floats
Cradling nameless dead bodies.
I am in moonlight.
Carrying flowers, drowned without resisting the current
In my drama of blood
I will slowly bring forth
Death for the end of the world.
"Even now, Armand,
About my love, about my youth,
What should I think ?"
The Atomic death
Under the irradiation of strontium
Under the irradiation of beta rays and gamma rays.
Farewell, farewell, Midori Naka!
For your bravery
For your beautiful memory, please take a camellia.
A flake of snow!
To create a shout to protect you
A whole life is left to you.
A white camellia!
Nothing more of Hiroshima.
Midori Naka!
You are a flake of snow.
VII
Children in Hiroshima will grow up.
Tomorrow, when I grow up
Mother, when I grow up
But a god of death has settled at a doorway in the city.
A heavy mantle of a new city was thrown
On my shoulders and on my boyhood.
But a god of death is still sitting on the edge of an empty space.
Tomorrow, Mother,
when I grow up
I will tame the sun
Collecting all the mirrors to reflect life
I will become a scientist.
Throwing light at physics
I will study hard and make a lot of friends
In every laboratory on earth
When I grow up.
But terror has settled on the paved stones of the doorway.
I will find out the way to go.
I will find out a passage between pain and indifference.
On transparent tears
a good intelligence will shine bright
But a god of death still sits
At the crossroad for strategy.
I will grow up.
Translated by Hiromitsu Oshima from French into Japanese.
Translated from Japanese into English by Noriko Mizusaki.
郡山直 どうもありがとうございました。
次の部分を訳しました大山真善美さん、どうぞ。
大山真善美(おおやま ますみ)
こんにちは! 私が訳した詩はあまり多くないんです。分担していて、ここまでが私でここからが郡山先生でとかいろいろあったのですが、間に大学の英語の教授の先生が入ったのでこれは皆その人がやっていると思ったんですよ。ところがその人は「いやいや、やらんやらん。大山さんやってくれ」と言われて。(笑)まぁついでに訳した。それで、ここの人が踊りの詩で慰霊祭が終わった後に霊たちが集まって踊っているという面白い詩だったのですけど、そこを訳したら郡山さんが「ああ、私は踊りが好きだから訳したわ」(笑)「大山さん、せんでいいから」と。「ええ│っ、訳したのに!」と言ったんだけど。そういうことで何か分担がちょっと曖昧だったのですが、頑張って訳しました。
私は昔、中学校の英語の教師をしていて、一応英検とか通訳案内業とか資格はあるのだけれど、いわゆる車の部品の名前を知っているぐらいで全然、実用はまあまあしかできなかったんです。それで果たして翻訳はできるのだろうかと思っていたのだけれど、中学生相手に例えば(板書をしながら)ランチって皆lanchと書くでしょう? ……何か違いませんか? lunchなんですよね。皆に「lunchはローマ字読みしたらどうかな? そうだね、エルね。ここunchは何かな?」とか。(笑)……ちょっと下品になってしまうので読めませんけど、エル・××チ(unch)という……ね。そういうのを長いこと教えていたのです。二十年くらい。(笑)ですから、何かだんだん英語が錆びたような感じがして、できるんだろうかなと思ったのですが、その時に偶然典子さんというすごく優秀な人が現れて、日米学生会議に選ばれたという、日本二十人・アメリカで二十人優秀な人が集まって今後の日米の関係性を語っていこうという政府に選ばれた人がいて、この人と、この人の親戚のリッチ君と、私が教えに行っている小学校にいるジェイソン君がいきなり現われてきて。私の教え子の友達だったんですけど。その教え子というのがまたやんちゃな坊主で、「もう大山だけは嫌いだ。大山だけは大嫌いだ」と言ってから作文に書いて、私がその作文を皆に配ったんですけど、隣のクラスの先生が「これは配らん方がええで。これは大山さんが変な先生だと思われるので配らんほうがええで」と言われたのだけど、「いやいや、この子の真実じゃけ、配らにゃいけんのじゃ」と言って配ったんですよ。その子は最後まで反抗し続けて、そのクンちゃんという子が何と紹介してくれたという。それで、クンちゃんは沖縄へ行く時に「大山さん、お別れパーティーに来てくれ」と言うので行ったらこの人がいて、この人は、家が会社だったんですけど、その社長さんがいた。この人が私が結婚した人の親、舅だったんですよ。そういう縁があって、典子さんは小さい時から「おじいちゃん、行ってきます」「ただいま」と十六年間言っていた。私も同じ人に同じことを十六年間言っていた。(笑)それでまあ、それからあと別れたんですけど。でも、何かすごく縁があるなということで親しくなった時に、その翻訳のお話をいただいて「大山さん、翻訳してください」と。「ああОK、ОK! 典子さんもリッチ君もいるからできるわ」と思ってやったのです。
その時のネックになったのが、先ず名前ですね。人の名前が分らないんですよ。物の名前とか青桐とか何とか。あと、高さんとか。これはKouで良いのかとか。中国人の友達に聞いたらガオと言って。そういうことが一番ネックでした。
次が教養の欠如です。自分にいかに教養が無いかというのを思い知らされたんです。鈴木さんの詩に「カンパネルラ」という人が出てきて、「これ何ですか、鈴木さん?」と言ったの。「いやいや、宮沢賢治」。それを知らずに人の名前も分らないと言って。鈴木さんが「宮沢賢治を読んでください」ですよ。「日本のgreatest poetだと言ってください」と言われて「ああ、済みません!」。こういうのを思い知りますね。
あとは内容ですが、内容がよく分らなかったです。自分の読解力不足が主なのですけれど、要するに私は頭が悪いというのが主なんだけど。でも内容で、例えば先ほど下村和子様が読まれた「身の丈を忘れて 強さを望みすぎた人類/爆風を受ければ 焼けただれてしまう」(「こわれもの 注意」)というので「連帯責任」というのがあって、これはやった方に責任があるのだけど、「では受けた方はなぜ連帯責任を負わなくてはいけないのだ」というふうにリッチ君とかに突っ込まれて、いやいやこれはどうなんだろうと。それで下村さんに余程電話しようかと思ったのですがburdenにすればいいんです。The burden of joints responsibility「重荷を背負った人」というふうな表現にすれば良いと言われて、全部解決できたんですよね(笑)。非常に外人に説得するのは難しくて、「いやぁ、これは重荷だよ」というふうなことを典子さんが言ってくれる。日米学生会館に行ってくれてありがとうございます、と言って。
だから、私だけだったらちょっとできなかったかも知れないけど、こういう偶然の一致が非常に起こっていて、自分はやはり訳すべきだったんだなと思いました。
あとは、思い込みですね。「核廃絶」といったらthe distinguishment of nuclear weaponsだと思い込んでいて、自分は打ったんです。そうしたら典子さんは「いや、これはabolishmentだろう」と。自分は全く思い込んでいるから、チェックする人が無いとそのまま行っちゃうんですね。ですから、非常にこの三人のメンバーは強力だったんです。ところが、訳したあとにジェイソンは高熱が出てぶつぶつが出て倒れた。ジェイソンがやられて、私もやられて。私も何かいっぱいケロイドみたいなのが出て倒れて。それでリッチ君は、すぐにアメリカに帰っちゃって無事だったんですけど。典子さんもかなり熱を出して「もう私、耐えられない!」とか言い出して。
それでふと思ったのが、やはり何か縁があったなと思って。「私達は広島の原爆で焼かれて死んだわ」と思って。ジェイソンもおかしいですよ。外国人だったら原爆を正当化するのに、自分のパソコンの待ち受け画面を広島の平和公園にしているんですよ。「絶対原爆許せない!」と言っているし、リッチ君も「全ての核兵器を廃絶するべきだ。僕はそのために闘う!」とか言っているんですよ。だからたちまちそういうのが集まってこういう翻訳ができたなあと思います。私一人だったら、もしかしたらこれからできるかどうかは自信がありません。(笑)いや、何か仕事があったらください。頑張ります。
(一同笑い・拍手)
郡山直 大山さんは、コールサック社から学校のいじめの問題を取り扱っている『学校の裏側』という立派な本を出しています。
それでは、最後の所を訳した結城文さん。
結城文さんはお茶の水の大学にいるそうです。英語短歌集で『DROPS OF DEW』があります。
結城 文(ゆうき あや)
皆さまこんにちは。わたくしはこの一八一人の一人に加えていただきまして、とても嬉しく思っております。わたくしの詩は二七七頁にあります。また、このほかの三名の方と一緒に英訳を担当させていただきまして、とても光栄に思っております。
わたくしが英訳に関わり出しましたのは、初め短歌の英訳から入りました。短歌はもう三十年くらい書きつづけていて、ちょうど一九九二年に、それまで短歌というのは学者が万葉集とか百人一首を英訳しているけれども、歌人の感覚でひとつ英訳して、それはこれが日本古来の千三百年以上の歴史をもつ定型詩なのだということを世界に発信しようではないかという機運が出まして、それからずっと短歌の英訳をしてそれを世界に向けて年に二回「歌人クラブ」の方から定期刊行物を出しつづけております。お陰様で短歌人口はもう世界に千人くらい英語で短歌を書く人が出まして、一番多いのはアメリカです。アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアといった英語圏。それからUK(英国)ですね。その他にもやはり英語にしておくと英語以外の方でもその英語を見ながら自分も英語で書いてくれる。例えばフランス人とかドイツ人でも若干加わってくださる。
それで、先ほどの話でこの『一八一人集』もフランス語とかロシア語とかに翻訳されたらいいというお話がありましてほんとうにそうだと思いましたけれども、英語版が出て、フランス語版が出て、ロシア語版が出て、ということはなかなか難しいことです。ですけれども一度英語にしておきますと、それはそれを読んだ人が中国の人であれ、モンゴルの人であれ、マレーシアの人であれ、必ず心ある人がそれを読んで自分の言葉に、英語から自分の言葉にしてくれます。その意味で英訳というのは、一度英語にしておけばそれが次第に世界に浸透していくのではないかと思っております。
長崎には長津さんとか御庄さんみたいな強力な詩人があまりいらっしゃらないので少し寂しいのですけれども、長崎に住んでないからあまり力強い動きはしていませんがさいたま市に住んでいる本村俊弘さんという方が毎年八月の九日前後に「長崎原爆平和祈念 詩の夕べ」というのを長崎に帰ってやっておられます。それが短歌でもあるし、詩でも、俳句でも、それから音楽の演奏でも、原爆資料館でパフォーマンスをやっていらっしゃいます。
もう一つ、長崎資料館の姉妹館というのが、これも皆さまはあまりご存じないと思うのですけれど、島根県の雲南市という所にございます。今から三年前に小さな五つの町と一つの村が合併してできた市です。そこの三刀屋町という所で永井隆博士が生まれて長崎大学に行くまで、そこが永井隆博士の故郷なのです。永井博士のお父様という方が三刀屋町でお医者様をしていらっしゃったのです。ですから雲南市には長崎の原爆祈念館の姉妹館として「永井隆博士記念館」というのがございます。それでわたくしも鈴木さんにお願いして、この『一八一人集』をそこへ送っていただきました。今それが雲南市の永井隆記念館にもあります。
今度は私事でちょっとわたくしの思いなのですが、歴史というのは常に勝者によって書かれていきますから、やはり世界の歴史の中でも日本で原爆についての記憶が風化している以上に、第二次世界大戦の終わり頃に日本という極東の国に原爆が落ちてそして大戦が終わったという記憶、世界の人びとの記憶も我々以上に風化しているのではないかと思います。そういう時に英訳版が出るということは、先ほど申しましたような理由で、小さな、最初は小さな種子かも知れないけれどもそれがだんだん育っていく、双葉になり、若木になり、育っていく種子を蒔くことではないかと思っております。
それで『一八一人集』に入れていただきましたわたくしの詩ですが、それが当時昭南島(現シンガポール)という島にちょうど終戦の少し前に私の父が現役の陸軍中佐で赴任していました。何をしていたかというと、飛行機の燃料になるような石油を日本に送る仕事をしていました。ところが、いよいよ日本の戦況が悪くなって本土決戦というようなことが叫ばれ出して、十人ほど父あるいはもう少し若手の人が参謀として日本へ呼び寄せられました。その時は制空権がもう敵の手にありましたので、普通に飛んでいたのでは撃ち落とされてしまう。それで、中国大陸の方を何度も何度も転々としながら日本の信州の松本飛行場まで辿り着きました。それから立川飛行場に向かう途中、飛行機が二台出て最初の飛行機は無事に立川に着けたのですが、父の乗っていた飛行機が大菩薩峠付近で遭難しました。遺骨を取りに行ったのが戦争が終わった後なのかどうかは分らないのですけれど、その遺骨を取りに母が母の妹と二人で行く時に非常にもう列車事情が悪く、確か広島の原爆の後だったと思うんですね。それで「広島にすごい爆弾が落ちたそうだ」「人間の皮が一瞬に剥けてしまうような、そういう爆弾が落ちたそうだ」という話を、遺骨を持って帰った母がしておりました。
そのわたくしの自分の詩の訳をちょっと読んでみますので、二七七頁の「原爆のことをはじめて聞いた日」をご覧になりながらお聴きください。
THE DAY I FIRST LEARNED OF THE ATOMIC BOMB
From my mother I learned of it on the day my father's ashes came home.
My mother and aunt had gone a great distance,
to the place of my father's new appointment
where his remains were returned.
With our grand-parents,
we, children waited anxiously for Father's return.
Mother and aunt came back completely exhausted.
“We could hardly board the train,
with passengers even clinging to the roof;
throwing their baggage through the window, people got on--
The stronger ones the worst.
No one respects the remains of the war dead.”
“They said a new type of bomb had fallen--
in only a moment humans were completely stripped of all skin.”
In our evacuation home.
the square wooden box wrapped with white cloth rested.
We didn't know for a certainty whether the remains were my father's or not,
but these were the remains
of those ten souls who shared the same fate,
of those who shared their last moment in the same plane.
Compared to the ashes of the tens of thousands of war dead
whose ashes were never returned,
we should appreciate something like ashes coming home.
My aunt who accompanied mother on that trip
has already passed away;
mother is still with us,
though all memories in her brain have perished--
The new bombs they learned of in the train,
perhaps, the Atomic Bomb in Hiroshima.
The newly-created weapon which instantly stripped off human skin
fell also in Nagasaki;
So the war ended.
I can't now ascertain the date when they went to receive father's ashes,
before the end of war or after,
The day I first learned of the Atomic Bomb
was the day my father’s ashes returned.
郡山直 どうもありがとうございました。以上で第三部を終わります。(一同拍手)
鈴木比佐雄 本日は遠い所からたくさん集まってくださいまして、どうもありがとうございました。これだけの仕事ができたのも、やはり皆さんの一篇一篇の力だとほんとうに感謝しております。
今年の二月くらいに長津さんから原爆詩集を一緒にやろうというような話があったのですが、実は昨年の春にも私は「長津さん、そろそろ私とやりませんか」と持ちかけたこともあったのですが、「ちょっと待ってくれ。出版社と今やっているから」と。今から二年以上前にもそういう話があって、その時私が「もし私にやらせてくれれば、やりますよ」というような話もしたと思います。それはたぶんどんなに大きな出版社でもこの出版は難しいのではないかと思っていたのです。それはやはりモチベーションというか、原爆詩を書いている現役の詩人のことを分かっていないとか、原爆詩人のことが本当の価値が分かっていなければ編集は無理ではないかという思いがあったのです。それは、私が二十年前に「COAL SACK」誌を始めた時に鳴海英吉さんを誘ったのですが、鳴海さんはちょうどその年に『広島・碑文』という詩集を十部か二十部つくって私の所にも送って来たのですが、広島の連作を書かれていた。ちょうどその時に長崎の入江昭三さんが癌に罹って私の所にも遺言状のような私信を送ってくれたのです。私は「COAL SACK」を始める前に「詩的現代」という詩誌をやっていてそれを終刊にしたのですが、その時に「もう自分の命はあと数カ月だけれども、今まで雑誌を送ってくれてありがとう。これからも頑張ってください」という私信に私はすごく感動しました。やはり詩誌の編集者というのは命を賭けて雑誌を出すものだと思いました。そういうこともありました。私は鳴海さんや入江さんのような生涯をかけて詩作をした詩人たちを後世に残したいという思いがあります。
それで私は八七年から「COAL SACK」(石炭袋)を創刊しました。そして鳴海さんが浜田知章さんを紹介してくれました。私は浜田さんと九四年くらいに親しくなっていきました。私が『浜田知章全詩集』をつくる一つのきっかけになったのは浜田知章論を書きたいから浜田さんの全てのものを読まして下さいということで浜田さんのご自宅に行きました。すると浜田さんから私に小倉豊文さんの『ノー・モア・ヒロシマ』というのを出して「これは自分が編集したものだ」と手渡されました。そして小倉豊文さんという『絶後の記録』を書いた素晴らしい人がいると言われました。私は小倉豊文さんは賢治の「手帳」の研究をされていたので賢治研究家というような認識があったのですけれども、そういうような被爆の平和運動もされていた方だなと知りました。私は『絶後の記録』手引きとして、浜田さん、鳴海さんから促されて、私は九七年に広島に行きました。そうしたら長津さんが待っていてくれまして、御庄博実さん、福谷昭二さんとかいろいろな方を紹介してくださいました。それとまた九九年、朝鮮人被爆者が引き揚げて暮らしていた陜川(ハプチョン)のことをずっと調べて八千行もの詩集にした高炯烈さんと出会いました。「COAL SACK」にそれから七年間翻訳をして、二〇〇六年に『長詩 リトルボーイ』をつくったのですが、またそれの出版記念会で長津さんとか広島の詩人達がたくさん応援してくれました。
そういう過程の中から長津さんが「コールサックしかないのかな」と思われたのではないかと思うんですよね。(笑)それが今年の二月なのですが、実際に編集会議というのは、先ほど金沢のお二人、うおずみさんと千葉さんが話されましたけど、金沢に行く新幹線や列車に乗った四、五時間に二人で一生懸命話しまして、それでだいたい今の編集方針が決まりました。そのことは山本さんにも伝えて、それから三人で開始しました。
今日はスタッフ、この実際の実務者を紹介したいと思います。
実際の入力作業とか組版をしたスタッフのリーダーの前田洋司さん、それからデザイナーの高橋美津穂さんです。ほんとうは装幀表紙画を描いてくださった詩人で日本画家だった福田万里子さんをご紹介したいけど、福田さんは昨年の八月十二日に亡くなられてしまいました。それと、校正の宮本登美子さんと葛原りょうさん。その他に前田さんの下にまだまだいろいろスタッフがいるのですが。そういうスタッフの力で、いちおう四月後半から「COAL SACK」で公募して、もう五月十五日には閉め切って、そう考えると、もう二か月くらいでつくったんですね。でも、それまでに実はすごい原爆詩を書いていた詩人のストックがあったんですよ。それは「COAL SACK」に集まっていた詩人たちがいたということもあるし、私が戦争責任を担っている詩人たちの評論を書いていたということもあるし、また多くの詩人の詩集の中の原爆詩を読んでいたということもあります。例えば長崎で言えば先ほどの入江昭三さんもそうですし、そのあとを引き継いだ上滝望観さんもそうですし、あと、長崎で言うと柳生じゅん子さんとか、または九州で言うと金丸枡一さんとか、いろんな形の多くの詩人の中に原爆詩があるということが分かっていたのです。分かっていて、「これを集めたらみんながびっくりするはずだ」と。そういうようなことはずっと考えていました。それを誰かがやるだろう、誰かがやらなくてはいけない、と思っていた。長津さんもそれは自覚していたと思うのですが。そういう意味ではもう私は出るべくして出た本ではないかと思います。
でもこのことを初めに考えたのはたぶん栗原貞子さんや峠三吉さんたちで、原爆詩というのは世界文学だというふうに考えていたと思う。さらに浜田知章さんは一九五二年の「山河」一一号で長谷川龍生さんと原爆特集を試みて自覚的に原爆詩の可能性を広げたんですよね。一九五二年のその時点でかなり自覚的に原爆詩というものは世界文学の大きなテーマだということは明確になってきたのではないかと思いますね。それをずっと、六十二年間の成果を集めたので、この本が多くの人の心をとらえないはずはないと思い、私はいちおう三千部を刷ました。今二版目の三千部を刷って合計三千五百くらい読まれているのですが、本当はあと十倍は売れてもいいと思っています。ゆっくりと広がっていけば願っています。
あと言い足りなかったことは、嵯峨信之さんという詩人がいましたが、私は小学校時代に嵯峨信之さんの「ヒロシマ神話」という詩を教科書か何かで読んだと思うのです。そういうことも残っていました。実際に嵯峨さんとは九〇年に出会ってそのことを話したら、「あぁ、あれはねぇ、印税がたくさん入ってよかったんだよ」なんて話していました。「でも最近は教科書に載ってないから、印税が入らない」なんてそのころは言っていましたけれども。
もっともっとこの『原爆詩集』の中から教科書に載るような方向になってほしいと思っていますし、そして皆さんの詩が教科書に載って皆さんに印税が入って欲しいと願っています。ちょっとうちのスタッフから……。
前田洋司 今度『原爆詩一八一人集』英語版の出版に向けて編集しているのですが、私も全力を尽くして頑張っていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。(一同拍手)
高橋美津穂 直接お顔を拝見しないで装幀デザインをさせていただいてしまったのですけれども、原爆詩の方も福田様の絵をちょっとお借りしてつくったのですが、赤く燃える原爆ドームの周りにやはり赤い花が輪になっていて、ちょっと素敵な絵だなと思いました。これから英語版の方もどんどん進んでいますので、皆様よろしくお願いいたします。(一同拍手)
主催者の挨拶
山本十四尾 本日はほんとうに一日長い時間お力添えをいただきまして、ありがとうございます。この英訳版が出て我々の地道な活動から世界に発信できるようにさらに努力を重ねていきたいと思いますので、さらなるお力添えをお願いしてこの会を終わりにしたいと思います。(一同盛大な拍手)
│了│ |