『故郷と異郷の対話・連帯詩歌集 ―大地の基底にある「原故郷」に立ち還り「地球人」の連帯を模索する』公募趣意書
【よびかけ文】
科学技術の発達によって人間の「生活世界」は過度の欲望の刺激を受け、他の地球の生きものたちの生活圏や生態系を破壊し続けて、気候変動という形で地球の危機を誰もが感ずる時代状況になっている。人類はどうしたら他の生きものたちと共生する「地球人」になれるのだろうか。今から九十年ほど前の一九三四年に、現象学を提唱し二十世紀の哲学に大きな影響を与えたフッサールは、ナチスが政権を握りナショナリズムを煽り、周りの「異郷」である他国を侵略しようとする状況下の中で、ユダヤ人であるゆえに大学を追われた。その最中に「ウィーン講演」や論文『コペルニクス説の転覆』の中で、身体と大地の関係を問いながらも自国中心主義である故郷世界(Heimwelt)と異郷世界(Fremdwelt)の対立によって繰り返されている悲劇を回避するために、その根底に「原初的故郷」や「原故郷」(Urheimat)があることを指摘した。私はカントの「永遠平和」とフッサールの「原故郷」という考えは「ヨーロッパ」に限定しなければ、平和を「生成」していく観点からとても類縁性があり、今日的に人類の課題を言い当てていると思われる。そして未来にむけて故郷世界と異郷世界の対話を促し「連帯」を「生成」させていく理念や概念になりうるのではないか。
宮沢賢治『春と修羅』第二集の中にトシの死を冷静に受け止めるようになった詩「薤露青」が収録されている。詩「薤露青」の「薤露」とは「薤」(ラッキョウ)の細く長い葉の上に乗った露のことを指していて、古来より漢詩で人の命の儚さを喩えていた。それに賢治は「青」を加えて、「薤露青」とした独創的な言葉は、「薤」の葉の上に乗った露の一滴によって葉の青さが鮮烈に印象付けられる。「声のいゝ製糸場の工女たちが/わたくしをあざけるやうに歌って行けば/そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が/たしかに二つも入ってゐる」。このように賢治は「製糸場の工女たち」の歌声の中に「亡くなった妹の声」を聞き取り、今もトシの存在は他者に生まれ替わって生き続けていることに気付かされて励まされたのだろう。「故郷と異郷の対話・連帯」とは、「異郷」の概念を仮に広げて「異次元の異郷」と解釈すれば、この賢治の鎮魂詩も該当すると私には思われた。それに相応しいその他の詩篇を挙げたい。浪江町に帰還した鈴木正一氏の詩「棄民の郷愁」の中の最終連の「ふるさとのど真ん中で/郷愁に駆られるとは……」という二行は、避難を繰り返しやっと故郷に戻ってみれば、なぜか故郷を喪失した痛切な絶望感が記されている。また石垣島の八重洋一郎氏の詩「言葉」は、「(辺境のそのまた辺境 遠流の僻地における/過去 現在 未来 歴史 世界の定点観測は 強く/明視する…)から始まる。八重氏の詩の発想には、「故郷」から「異郷」を見るのではなく、「異郷」から「故郷」を検証する批評意識が濃厚に感じられる。
次に俳句や短歌を紹介したい。マブソン青眼氏の俳句〈山のおく縄文ビーナスそして雪〉。堀田季何氏の俳句〈水晶の夜映寫機は碎けたか〉。新城貞夫氏の短歌〈にっぽんの心を変うる企てにうたのありかをわが探り来し〉〈国家より棄てられてある幸運をなんで返上せねばならぬか〉。喜納勝代氏の短歌〈いくたびか海の平和を祈り来し漁女の空にいわし雲あり〉〈民族の差異を認めて平和の地望みて握手す冬の那覇空港〉。
このような詩歌を通して『故郷と異郷の対話・連帯詩歌集―大地の基底にある「原故郷」に立ち還り他者と連帯を模索する』という考え方で、詩歌を公募する。左記に具体的な個別のテーマの例を挙げたい。
①「故郷」が「異郷」から影響を与えられまた影響を与えている相互の実例。
②人間の経済活動に起因して「故郷」の自然の生態系がいかに変容しつつあるか。
③「故郷」と「異郷」が「対話」を通して「連帯」を模索する試み。
④東日本大震災・東電福島第一原発事故から十五年の「故郷」の変容。
⑤熊本地震・能登半島地震などの被災経験を語り継ぐ。
⑥原発の再稼働、新規原発建設、原潜の建造、核融合などは経済優先で問題があるのではないかという問いかけなど。
(鈴木比佐雄 記)






