一九四一年 石川啄木に憧れて短歌を始める。
一九四四年 三菱三原車輌青年学校卒業。
一九四五年 無線通信兵として入隊するが、終戦のため復員。
一九四七年 三菱三原車輌従業員組合青年部書記長となる。
一九四九年 国際新聞広島支局尾道駐在員記者となる。
一九五一年 大阪に出て昭和パイプに入社し、組合を結成し組合長となる。
小野十三郎と出会い中之島文学サークルの講演を依頼する。
一九五七年 大原塗装店を設立、翌年家具卸業二本桐を設立。
一九六七年 広島県府中市に帰郷し、栄進家具工芸を設立し現在に至る。
一九七八年 短歌集・回顧録『道草』(私家版)。
一九七九年 短歌集・回顧録『波の花』(私家版)。
二〇〇七年 詩集『通りゃんすな』出版。
広島県詩人協会会員、中四国詩人協会会員。
詩誌「衣」「輪」「福山文学」同人。「モデラート」「COAL SACK」に寄稿。
俺のふる里
陽炎の陽だまりの中
吹雪く花びらの向こうに
俺はふる里を見失っていた
兎と遊んだ裏山は
カラフルな家が建ち並び
小川の水はカラカラに乾き
メダカやどじょうはコンクリートの檻に
閉じ込められて逃げ場を失っていた
夕焼を唄った野道は
幾何学的な白線の道に変わり
別れを惜しんだ峠には
白い煙を吐き続ける工場が出来た
今も貪欲な怪物たちは飽きたらず
鉄の爪をふる里に打ち込んで
臓腑を引っぱり出している
見よ、
欠落した文明の亀裂は
底なし沼のように闇に広がり
贈賄、収賄、恫喝の網の中でもがき苦しみ
地底に沈んだ骸はさみしく
泥まみれの花束を積み上げる
梵鐘が弱々しく鳴き渡る
ここは何処
俺のふる里はどっちだ
(「COAL SACK」56号に掲載
ある形の遍路旅
観光バスの中は物見遊山の集団と
見粉う程の賑わいようで
乗客の背に、南無大師遍照金剛と
染め抜かれた白衣の道中着姿に
揃ってなければ
四国遍路の旅とは思えない雰囲気である
……皆様間もなく次のお札所に到着です、お仕度下さい、その前に皆様、前方右側の道路脇に見える無縁仏のお墓に手を合わせましょう、お四国参りのお遍路の旅に来られた方が不運にもこの地で人生を終えられたお墓です
ガイド嬢の声は手馴れた
マニュアル通りの口調で乗客をうながす
乗客の眼は一様にその墓にそそがれたが
深刻さはない
ただ後部座席にいた伸子だけは
違った想いに脳裏は沈みきっていた
明治も鹿鳴館で浮かれた時代も去り
巷は文明開化を求めてうねり始め
国勢は軍国の色を濃くしてゆく中
ここ瀬戸内を挟む本州北部の寒村は
冷え冷えとした空気に吹き晒されていた
とりわけ小作人百姓の家では
貧しさのため人減らしの年期奉公や
妾奉公などが頻繁に行われた
伸子の曾祖母に当るタミの家でも
次々生まれてくる孫で
家族も十人に膨れあがろうとしていた
……わたしゃ、連れ合いの供養も兼ねて、お四国参りをして来とうありゃんすけえ……
この地方では切なる願い事の成就を祈って
四国遍路の旅に出る者と
ひたすら仏に帰依する事を願って
四国四十八ヶ所に終(つい)の住処(すみか)を求めて
遍路の旅に出る者との習わしがあった
そしてそれはどちらが先に切り出すか
人減らしの最後の切り札でもあった
……お婆ちゃん着物の衿に一円ほど縫い込んで置きゃんしたけえ、困ったときゃあ、それを使いんさいよ、お大師さんがズーッと付き添うてくれとってでありゃんすけえな……
どうにもならない思いが交錯するなか
タミは家族の合掌に見送られ
住みなれた家を後にした
晩春の朧に霞む朝陽に
野面の麦の穂色が一段と濡れて輝き
それは切ないほどの緑の濃さであった
(「COAL
SACK」57号に掲載)


